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アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」より
image via theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family
その灰はトースターの大きさほどの黒いプラスチック製の箱に詰まっていた。それは3ポンド(約1.36kg)ほどの重さで、私はそれをキャンバス製のトートバッグに入れ、スーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した。
マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために。それは2016年7月の出来事だった。
彼女の名前はEudocia Tomas Pulidoだった。私たち家族は彼女をローラと呼んだ。彼女は身長4フィート11インチ(約1.5m)、モカ・ブラウン色の肌とアーモンド形の目を持った女性で、今でもその姿をありありと思い出すことができる。
彼女は私の母が子供の頃に祖父からもらった "贈り物" であり、当時彼女は18歳だった。私の家族がマニラからアメリカに移住する際、私たちは彼女を共に連れていった。
彼女の生活は奴隷以外の何物でもなかった。彼女の日々は私たち家族が目を覚ます前に始まり、家族が寝静まった後に終わった。彼女は1日3食を用意し、家をきれいに掃除し、両親が仕事から帰るのを迎え、4人の兄弟と私を世話した。
私の両親は決して彼女に給料を支払わず、彼らは常に彼女を叱っていた。彼女は足枷こそされていなかったが、されていたも同然だった。夜にトイレに行く途中で、彼女が洗濯が終わった服を折り畳む途中で、その洗濯物の山に向かって倒れるように眠っていた様を何度見たかわからない。
私たちのアメリカ人の隣人たちは、私たちを理想的な移民家族のように思っていた。実際彼らは私たちにそう言った。私の父は法律の学位を取得し、母親は医者になった。私も兄弟も良い成績を残していた。だが決してローラのことについては誰にも語らなかった。
母が1999年に白血病で亡くなった後、ローラは私と共にシアトル北部の小さな町に住み始めた。私は家族を持ち、キャリアを積み、郊外に家を持つという、まさにアメリカンドリームを勝ち取った移民だった。そして、私は奴隷を所持していた。
マニラの手荷物預かり所で、私はローラの遺灰がちゃんと入っていることを確認するために荷物を解いた。外では、排気ガスと、ゴミと、海と、甘い果実と、人々の汗が混合したなじみ深い濃厚な匂いがした。
翌朝、早いうちから私は目的の場所まで運んでくれる運転手を雇い、トラックで渋滞の中を縫うようにゆっくりとその場所まで向かった。クルマやオートバイ、ジープニー(フィリピンで使われている小型乗り合い自動車)の溢れるその光景は私の知っていたフィリピンの光景と全く違っていて私を驚かせた。
そこは軍の中尉のだった私の祖父、トマス・アスンシオン(Tomas Asuncion)がかつて住んでいた場所だ。彼は土地を多く所有していたがお金になる資産は少なく、愛人たちをその敷地内にある別々の家にかこっていた。私たち家族は祖父を風変りで暗い雰囲気を持つ恐ろしい男性と記憶している。
祖父の妻は唯一の子供、私の母を産んですぐに亡くなった。母は祖父が所有する奴隷の手によって育てられた。
その地域の島々では長い奴隷制度の歴史が存在した。スペイン人が来る前から島民は他の島民(通常は戦争捕虜や犯罪者、債務者)を奴隷にしていた。奴隷は財産とみなされ売買される対象だった。
また高い地位にある奴隷は低い地位にある奴隷を所有でき、その低い奴隷はさらに低い奴隷を所有するということもあったという。中には生き残るために自ら隷属に入ることを選んだ人もいる、労働と引き換えに彼らは食糧や家、保護を受けることができたのだ。
そして1500年代にスペイン人が現れた時、彼らは島民を奴隷にし、後にアフリカとインドの奴隷を連れて来た。スペインは最終的には家庭内とその植民地での奴隷制度を段階的に廃止するようになったが、当局の目の届かないフィリピンの一部ではその後も奴隷制度が継続していた。1898年に米国が島を支配した後でさえ、その伝統は異なった形で存続し続けた。貧困が深刻な問題となっているこの地域では今日でも奴隷に近い扱いの人々が存在している。
私の祖父は3家族の奴隷(に近い扱いの人々)をその敷地内で住まわせていた。 1943年の春、その地域の島々が日本の占領下にあった時代、祖父は近くの村から一人の少女を家に連れて来た。彼女は農家の娘で、貧しく、学校教育を受けておらず、従順に思われた。
少女の両親は彼女を二回りも年の離れた農夫と結婚させることを望んでいた。彼女はそれを強く嫌がったがどうすることもできなかった。祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。」母はまだ12歳になったばかりだった。
ローラはその契約が生涯続くものであることを理解せずに同意した。
祖父は母にこう言った。
「この子はお前への "贈り物" だ。」
「私はそんなの望んでない」
母はそう答えた、拒否することが不可能であることを知りつつ。
やがて祖父は日本人と戦うために家を後にした、地方の老朽化した家に母とローラを残して。ローラは毎日母の食事を作り、身なりを整え、服を着せた。母が市場を歩くときはローラは日差しから母を守るために傘を持って随行した。
夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた。
All photos courtesy of Alex Tizon and his family ある日、まだ日本との戦争中だった時、祖父は家に帰ると母を捕まえ怒鳴り声をあげた。母が言うには、はっきりとは覚えていないが話してはいけないと言われていた少年と何か関係があったらしい。祖父は怒り、母に「テーブルの側に立て」と命じた。
怯えた母はローラと共に部屋の隅に縮こまった。そして、震えた声で、母は祖父に、ローラが代わりに罰を受けると言った。ローラは懇願するような目で母を見たが、すぐに無言でダイニングテーブルに向かった。
祖父はベルトを持ち上げて、「You. Do. Not. Lie. To. Me.(私に、嘘をつくな!) You. Do. Not. Lie. To. Me(私に、嘘をつくな!)」と刻みながら12回、ベルトをローラに振るった。ローラはその間も声をあげなかった。
私の母は、彼女の人生の後半に差し掛かった頃にこの話を詳しく私にしてくれた。母の言葉は「私がそんなことをしたなんて信じられる?」といったトーンをはらんでいた。ローラはその話に耳を傾けている間、視線を下げていた。そして彼女は悲しそうな表情で私を見ながら「ええ、そんな感じでしたね」とだけ口にした。
その祖父の折檻から7年後の1950年に母は私の父と結婚しマニラに移り住んだ、もちろんローラを連れて。そのころ祖父は、おそらく戦争の体験も影響したのだろうが、日々悪夢に悩まされいた。そして1951年、32口径をこめかみに当てて引き金を引いた。
母はそのことについてほとんど話をしなかったが、祖父の気質をしっかりと受け継いでいた、強権的で、気分屋で、実は脆弱な心を。そして母は祖父の「命令を与える立場にいる人間はその役割を受け入れなければならない」という考えも受け継いでいた、それは彼ら自身のために、家族のために常にどこかで意識すべきことであると。それによって子供たちは泣くかもしれないし不平を言うかもしれないが、彼らの魂は感謝するだろうと。
All photos courtesy of Alex Tizon and his family 私の兄アーサーは1951年に生まれた。私は次に、さらに3人の兄弟が続いた。私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、子供たちにも献身的でいることを期待していた。ローラが私たち兄弟の世話をしている間、私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった。
そしてある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。 給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった。それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった。
父は家族と一人の家事奉公人を共に連れて行くことを許されていた。両親は両方とも働かなければならないと考え、子供と家を世話するためにローラを必要とした。
母はローラにそれを伝えたが、彼女はすぐに返事をできなかった。後にローラから話を聞くと、彼女は恐怖を感じていたという。「それはあまりにも遠すぎる場所です。」彼女は言った。 「あなたの両親は、もう私を帰宅させてくれないつもりなのではと思いました。」
最終的にローラにアメリカ移住を決断させたのは、父の、アメリカではもっと良い生活が待っているという約束だった。
父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った。そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると。ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた。ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ。
彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった。私が赤ん坊の頃、 "ママ"や "パパ" などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた。私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった。
米国に移り住んだ時点で私は4歳だった。ローラの、私たちの家族における立場を理解するにはあまりにも若すぎた。だが私や兄弟は母国から距離的にも社会文化的にも遠く離れた地で育ったこともあり、それまでとは違った世界の見方を育んだ。だが一方で、母と父は環境を大きく変化してもなお変わることは、あるいは変わろうとする意思はなかった。
ローラが約束された手当を受けとることはなかった。彼女は私の両親に、アメリカで生活し始めてから何度か遠まわしにそれを尋ねた。ローラの母は病気に陥っていた(私は後にそれが赤痢だったと知る)。彼女の家族は必要な薬を買う余裕がなかった。
ローラは私の両親に「可能ならば、どうか」と尋ねたが、母は溜息を吐き、父は「どうしてそんなことが言い出せるんだ?」とタガログ語で答えた。「今私たち家族がどんなに大変な時期にあるかわからないのか?君には恥というものがないのか?」
当時、私の両親はアメリカへの移住のためにお金を借りており、さらに滞在するためにもっと借りていた。父はロサンゼルスの領事館からシアトルのフィリピン領事館に転属されていた。
父は年に$ 5,600を給与として受けてっていた。メインの仕事以外にもトレーラーの清掃、債務回収人としても働いていた。母はいくつかの医学研究室で技術者として仕事をしていた。私たちはアメリカに移ってから両親の姿をほとんど見たことがなく、見ることがあってもしばしば疲れている様子で不機嫌だった。
母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した。そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。
時には私の両親は二人でローラを責め立てた、彼女が泣いてしまうまで、まるで泣かせること自体が目的であるかのように。
それは私を混乱させる光景だった。私の両親は私や兄弟には優しく、私たちも両親を愛していた。しかし、両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。
私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった。8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった "奴隷" という言葉を教わった。彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった。
両親がローラを怒鳴りつけるのが嫌で仕方がなかったが、だからといって彼女を奴隷として扱っている状況を不道徳とはまだ思えなかった。
All photos courtesy of Alex Tizon and his family 「彼女と同じような扱いを受けている人間を知っているか?」
「彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?」
「無給で毎日骨折って働く人間がいるか?
椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?
毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、外出もほとんせず、友人も趣味も持てず、プライベートな空間が家にまったくない人間が他にいると思うか?(私たちが住んできた家では、ローラが寝る場所はいつもソファーや倉庫や妹のベッドルームの隅などだった。) 」
兄はローラの現実を要約した。私たちはローラと同じような立場にいる人間をテレビや映画の奴隷のキャラクターでしか見つけることができなかった。
ある晩、9歳だった妹・リンは夕食に現れなかった。父はローラに怠慢だと怒鳴りつけた。
「私は彼女に食事をとってくれるよう言いました」と立ち上がりにらみつける父にローラが答えた。彼女のか弱い抵抗は父をより怒らせ、父は彼女を殴りつけた。ローラが部屋から飛び出す。私は彼女の泣き声をはっきりと聞くことができた。
「リンはお腹がすいていないって言ってた。」
私は言った。
私の両親は振り返り驚いた表情で私を見た。私は涙が出る前に感じる顔の痙攣を感じたが、この時は泣かなかった。母の目には、それまで見たことのない何か暗い影が映っていた。嫉妬?
「お前はローラの味方をするのか?」と父は言った。「そんなことをするのか?」
「リンはお腹がすいていないって言ってた...」私はもう一度、つぶやきに近い小さな声で言った。私は13歳だった。それは私たちの日々を見守ってくれた女性のために立ち上がった最初の試みだった。
彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった。服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった。私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで小さくし食べさせてくれた女性だった。
夏の日、間接を痛めたことから両脚を石膏で固めた時に毎日洗面器を持ってきて私を拭いてくれたのは、夜中に薬を持ってきてくれたのは、数ヶ月のリハビリを通して私を助けてくれたのは彼女だった。
ローラの嘆き悲しむ声を聞くことは耐え難いことだった。
-続きます-
“Chain”
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CC BY 2.0
私の家族の奴隷
My Family’s Slave - JUNE 2017image via theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family
"彼女は私たちと56年間共に生活し、私やその兄弟を無給で育ててくれた。11歳の頃まで、私はごく一般的なアメリカ人の子供だった、彼女が私の家族の奴隷だと知るその日まで。"
アクセス解析ツールChartbeatを運営する米国のChartbeat社が発表した
『2017年最も読者を魅了した記事ベスト100』
の1位に輝いた
アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」
の記事『私の家族の奴隷(My Family’s Slave)』の翻訳です。
著者のアレックス・ティゾンは1997年にピュリッツァー賞を受賞したフィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。この記事は彼の遺作となっています。
著者のアレックス・ティゾンは1997年にピュリッツァー賞を受賞したフィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。この記事は彼の遺作となっています。
その灰はトースターの大きさほどの黒いプラスチック製の箱に詰まっていた。それは3ポンド(約1.36kg)ほどの重さで、私はそれをキャンバス製のトートバッグに入れ、スーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した。
マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために。それは2016年7月の出来事だった。
彼女の名前はEudocia Tomas Pulidoだった。私たち家族は彼女をローラと呼んだ。彼女は身長4フィート11インチ(約1.5m)、モカ・ブラウン色の肌とアーモンド形の目を持った女性で、今でもその姿をありありと思い出すことができる。
彼女は私の母が子供の頃に祖父からもらった "贈り物" であり、当時彼女は18歳だった。私の家族がマニラからアメリカに移住する際、私たちは彼女を共に連れていった。
彼女の生活は奴隷以外の何物でもなかった。彼女の日々は私たち家族が目を覚ます前に始まり、家族が寝静まった後に終わった。彼女は1日3食を用意し、家をきれいに掃除し、両親が仕事から帰るのを迎え、4人の兄弟と私を世話した。
私の両親は決して彼女に給料を支払わず、彼らは常に彼女を叱っていた。彼女は足枷こそされていなかったが、されていたも同然だった。夜にトイレに行く途中で、彼女が洗濯が終わった服を折り畳む途中で、その洗濯物の山に向かって倒れるように眠っていた様を何度見たかわからない。
私たちのアメリカ人の隣人たちは、私たちを理想的な移民家族のように思っていた。実際彼らは私たちにそう言った。私の父は法律の学位を取得し、母親は医者になった。私も兄弟も良い成績を残していた。だが決してローラのことについては誰にも語らなかった。
母が1999年に白血病で亡くなった後、ローラは私と共にシアトル北部の小さな町に住み始めた。私は家族を持ち、キャリアを積み、郊外に家を持つという、まさにアメリカンドリームを勝ち取った移民だった。そして、私は奴隷を所持していた。
マニラの手荷物預かり所で、私はローラの遺灰がちゃんと入っていることを確認するために荷物を解いた。外では、排気ガスと、ゴミと、海と、甘い果実と、人々の汗が混合したなじみ深い濃厚な匂いがした。
翌朝、早いうちから私は目的の場所まで運んでくれる運転手を雇い、トラックで渋滞の中を縫うようにゆっくりとその場所まで向かった。クルマやオートバイ、ジープニー(フィリピンで使われている小型乗り合い自動車)の溢れるその光景は私の知っていたフィリピンの光景と全く違っていて私を驚かせた。
"祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。」"
私たちが向かった場所はフィリピン北部ルソン島にあるタルラック州であり、それはローラの物語が始まった場所だった。そこは軍の中尉のだった私の祖父、トマス・アスンシオン(Tomas Asuncion)がかつて住んでいた場所だ。彼は土地を多く所有していたがお金になる資産は少なく、愛人たちをその敷地内にある別々の家にかこっていた。私たち家族は祖父を風変りで暗い雰囲気を持つ恐ろしい男性と記憶している。
祖父の妻は唯一の子供、私の母を産んですぐに亡くなった。母は祖父が所有する奴隷の手によって育てられた。
その地域の島々では長い奴隷制度の歴史が存在した。スペイン人が来る前から島民は他の島民(通常は戦争捕虜や犯罪者、債務者)を奴隷にしていた。奴隷は財産とみなされ売買される対象だった。
また高い地位にある奴隷は低い地位にある奴隷を所有でき、その低い奴隷はさらに低い奴隷を所有するということもあったという。中には生き残るために自ら隷属に入ることを選んだ人もいる、労働と引き換えに彼らは食糧や家、保護を受けることができたのだ。
そして1500年代にスペイン人が現れた時、彼らは島民を奴隷にし、後にアフリカとインドの奴隷を連れて来た。スペインは最終的には家庭内とその植民地での奴隷制度を段階的に廃止するようになったが、当局の目の届かないフィリピンの一部ではその後も奴隷制度が継続していた。1898年に米国が島を支配した後でさえ、その伝統は異なった形で存続し続けた。貧困が深刻な問題となっているこの地域では今日でも奴隷に近い扱いの人々が存在している。
私の祖父は3家族の奴隷(に近い扱いの人々)をその敷地内で住まわせていた。 1943年の春、その地域の島々が日本の占領下にあった時代、祖父は近くの村から一人の少女を家に連れて来た。彼女は農家の娘で、貧しく、学校教育を受けておらず、従順に思われた。
少女の両親は彼女を二回りも年の離れた農夫と結婚させることを望んでいた。彼女はそれを強く嫌がったがどうすることもできなかった。祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。」母はまだ12歳になったばかりだった。
ローラはその契約が生涯続くものであることを理解せずに同意した。
祖父は母にこう言った。
「この子はお前への "贈り物" だ。」
「私はそんなの望んでない」
母はそう答えた、拒否することが不可能であることを知りつつ。
やがて祖父は日本人と戦うために家を後にした、地方の老朽化した家に母とローラを残して。ローラは毎日母の食事を作り、身なりを整え、服を着せた。母が市場を歩くときはローラは日差しから母を守るために傘を持って随行した。
夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた。
18歳当時のローラ(左)
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family ある日、まだ日本との戦争中だった時、祖父は家に帰ると母を捕まえ怒鳴り声をあげた。母が言うには、はっきりとは覚えていないが話してはいけないと言われていた少年と何か関係があったらしい。祖父は怒り、母に「テーブルの側に立て」と命じた。
怯えた母はローラと共に部屋の隅に縮こまった。そして、震えた声で、母は祖父に、ローラが代わりに罰を受けると言った。ローラは懇願するような目で母を見たが、すぐに無言でダイニングテーブルに向かった。
祖父はベルトを持ち上げて、「You. Do. Not. Lie. To. Me.(私に、嘘をつくな!) You. Do. Not. Lie. To. Me(私に、嘘をつくな!)」と刻みながら12回、ベルトをローラに振るった。ローラはその間も声をあげなかった。
私の母は、彼女の人生の後半に差し掛かった頃にこの話を詳しく私にしてくれた。母の言葉は「私がそんなことをしたなんて信じられる?」といったトーンをはらんでいた。ローラはその話に耳を傾けている間、視線を下げていた。そして彼女は悲しそうな表情で私を見ながら「ええ、そんな感じでしたね」とだけ口にした。
母はそのことについてほとんど話をしなかったが、祖父の気質をしっかりと受け継いでいた、強権的で、気分屋で、実は脆弱な心を。そして母は祖父の「命令を与える立場にいる人間はその役割を受け入れなければならない」という考えも受け継いでいた、それは彼ら自身のために、家族のために常にどこかで意識すべきことであると。それによって子供たちは泣くかもしれないし不平を言うかもしれないが、彼らの魂は感謝するだろうと。
ローラ27歳、アメリカに移住する前、著者の兄と。
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family 私の兄アーサーは1951年に生まれた。私は次に、さらに3人の兄弟が続いた。私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、子供たちにも献身的でいることを期待していた。ローラが私たち兄弟の世話をしている間、私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった。
そしてある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。 給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった。それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった。
父は家族と一人の家事奉公人を共に連れて行くことを許されていた。両親は両方とも働かなければならないと考え、子供と家を世話するためにローラを必要とした。
母はローラにそれを伝えたが、彼女はすぐに返事をできなかった。後にローラから話を聞くと、彼女は恐怖を感じていたという。「それはあまりにも遠すぎる場所です。」彼女は言った。 「あなたの両親は、もう私を帰宅させてくれないつもりなのではと思いました。」
最終的にローラにアメリカ移住を決断させたのは、父の、アメリカではもっと良い生活が待っているという約束だった。
父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った。そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると。ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた。ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ。
"それは私を混乱させる光景だった。両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。"
1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。その時点でローラは21年間私の母に尽くしていた。数多くの面において、彼女は私の母や父よりも私の親だった。彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった。私が赤ん坊の頃、 "ママ"や "パパ" などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた。私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった。
米国に移り住んだ時点で私は4歳だった。ローラの、私たちの家族における立場を理解するにはあまりにも若すぎた。だが私や兄弟は母国から距離的にも社会文化的にも遠く離れた地で育ったこともあり、それまでとは違った世界の見方を育んだ。だが一方で、母と父は環境を大きく変化してもなお変わることは、あるいは変わろうとする意思はなかった。
ローラは私の両親に「可能ならば、どうか」と尋ねたが、母は溜息を吐き、父は「どうしてそんなことが言い出せるんだ?」とタガログ語で答えた。「今私たち家族がどんなに大変な時期にあるかわからないのか?君には恥というものがないのか?」
当時、私の両親はアメリカへの移住のためにお金を借りており、さらに滞在するためにもっと借りていた。父はロサンゼルスの領事館からシアトルのフィリピン領事館に転属されていた。
父は年に$ 5,600を給与として受けてっていた。メインの仕事以外にもトレーラーの清掃、債務回収人としても働いていた。母はいくつかの医学研究室で技術者として仕事をしていた。私たちはアメリカに移ってから両親の姿をほとんど見たことがなく、見ることがあってもしばしば疲れている様子で不機嫌だった。
母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した。そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。
時には私の両親は二人でローラを責め立てた、彼女が泣いてしまうまで、まるで泣かせること自体が目的であるかのように。
それは私を混乱させる光景だった。私の両親は私や兄弟には優しく、私たちも両親を愛していた。しかし、両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。
私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった。8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった "奴隷" という言葉を教わった。彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった。
両親がローラを怒鳴りつけるのが嫌で仕方がなかったが、だからといって彼女を奴隷として扱っている状況を不道徳とはまだ思えなかった。
(左)ローラと子供たち。(右)アメリカに到着して5年後、両親、兄弟、ローラとともに著者(左から2番目)。
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theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family 「彼女と同じような扱いを受けている人間を知っているか?」
「彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?」
「無給で毎日骨折って働く人間がいるか?
椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?
毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、外出もほとんせず、友人も趣味も持てず、プライベートな空間が家にまったくない人間が他にいると思うか?(私たちが住んできた家では、ローラが寝る場所はいつもソファーや倉庫や妹のベッドルームの隅などだった。) 」
兄はローラの現実を要約した。私たちはローラと同じような立場にいる人間をテレビや映画の奴隷のキャラクターでしか見つけることができなかった。
ある晩、9歳だった妹・リンは夕食に現れなかった。父はローラに怠慢だと怒鳴りつけた。
「私は彼女に食事をとってくれるよう言いました」と立ち上がりにらみつける父にローラが答えた。彼女のか弱い抵抗は父をより怒らせ、父は彼女を殴りつけた。ローラが部屋から飛び出す。私は彼女の泣き声をはっきりと聞くことができた。
「リンはお腹がすいていないって言ってた。」
私は言った。
私の両親は振り返り驚いた表情で私を見た。私は涙が出る前に感じる顔の痙攣を感じたが、この時は泣かなかった。母の目には、それまで見たことのない何か暗い影が映っていた。嫉妬?
「お前はローラの味方をするのか?」と父は言った。「そんなことをするのか?」
「リンはお腹がすいていないって言ってた...」私はもう一度、つぶやきに近い小さな声で言った。私は13歳だった。それは私たちの日々を見守ってくれた女性のために立ち上がった最初の試みだった。
彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった。服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった。私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで小さくし食べさせてくれた女性だった。
夏の日、間接を痛めたことから両脚を石膏で固めた時に毎日洗面器を持ってきて私を拭いてくれたのは、夜中に薬を持ってきてくれたのは、数ヶ月のリハビリを通して私を助けてくれたのは彼女だった。
ローラの嘆き悲しむ声を聞くことは耐え難いことだった。
-続きます-
海外の反応特に無し
返信削除ちゃんと海外の読者のコメントも翻訳しますよ。ただとても長い記事なので一度に掲載しきれません。とても興味深い記事なので最後まで付き合っていただけるとありがたいです。
削除続くと書いてあるから、そのうちコメント出てくると思うよ
削除続きに海外の反応が入ってくるんでしょ
削除流し読みしていたが、ロール速度が段々遅くなって、最後にはじっくり目を通していた。
返信削除ここの管理人の翻訳力は凄いようだ。
アメリカで人気の映画レビューなども翻訳できるレベルではないだろうか。
おれと同じだ。
削除ちゃんと読む巡回ブログ4つになった。
おれもおれも。
削除このブログで以前、勝手にマリファナ送り付けられたみたいで俺どうしたらいいの?みたいな記事を読んで以来、
アンテナで更新が上がるたびに見てる。
興味深く読みました。素晴らしい記事だと思いました。
管理人さん、ありがとう。続き楽しみに待ってます。
で三行で言うと?
返信削除お前は
削除小学校から
やり直せ
女の子を騙してアメリカまで連れて行って
削除三世代に無給で奉仕させたがついにが死んだので
奴隷の故郷に返品しに行った
なるほどな……
削除>だからといって彼女を奴隷として扱っている状況を不道徳とはまだ思えなかった。
削除ちなみにコイツは奴隷にしていることを悪いとは思っていなかったらしい(鬼畜過ぎる)
あと読んでて気づいたんだけど、フィリピンの慰安婦ってもしかしてこういう奴隷として
扱われた人が日本兵に売り渡していたのが本当の歴史なんじゃないかな
それをフィリピンは「自分たちが奴隷を売り飛ばしていたのがバレるとまずいから
全部日本のせいにしよう」としているんじゃね?
映像化してほしいくらいのストーリーだな
返信削除ハリウッド映画はこういう「白人の罪」は黒人奴隷にしたことしかしないからね
削除なぜなら黒人の有権者が圧倒的に多いけど、フィリピン人の有権者は殆ど居ない
また退役軍人がアメリカでは幅を利かせているので、定期的にナチスや日本、更に
ベトナムや湾岸戦争などの軍人万歳映画を作って収益を得ている
それにヨーロッパも過去に植民地にしていたから、これを映像化する会社は殆どない
そんなことをすれば他のヨーロッパ諸国から叩かれる。そして日本や中国が映像化すれば
「アジア人によるプロパガンダだ」とフェイクと言って闇に葬られる可能性が高い
白人じゃねーだろ?
削除フィリピン人がフィリピン人を奴隷にしてた話だ
こういう事をちゃんと世界中に知らせないと駄目だ
返信削除この内容と同じ事されたとか言うニダとアルが◯万人に増やす。
削除「銅像を作るニダー」
金を出したアルが後ろで、シェシェシェと笑っている。
続きますだから、次の記事にあるかもよ
返信削除続きはやく読みたい
返信削除意外と知られてないんだが奴隷貿易って黒人だけじゃないし、むしろアジア方面のそれは明治政府が保護に動き出すまで
返信削除野放しだったんだよなあ、中国人苦力とか清は日本政府が動き出すまで放置してたりえげつない
アメリカだけど、映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の中華系女性キャスターの
削除「中国人はずっとアメリカ市民権をもらえず私の父は日本人と結婚して
やっと市民権がもらえた」ってセリフを思い出した
この物語を三行に省略できると思ってる人間は、きっと脳みそにシワがないんだろうな
返信削除>母の言葉は「私がそんなことをしたなんて信じられる?」といったトーンをはらんでいた。
返信削除筆者の目を通してそこに居るようで堪える。悲しい。
(管理人さん良記事ありがとう。続きよみにきますわ)
最悪な話だな 投稿主とその一族は恥を知れ
返信削除アベが悪い
返信削除ジミンが悪い
ニホンが悪い
マジか、アメリカひでぇな。
返信削除竹中平蔵がきれいな言葉で取り繕って進めている、
返信削除国家戦略特区の「外国人家政婦サービス」ってせんじつめるとこういうことだよなあ。
子供を外国人に預けて、専門性の高い仕事に就く。
はたしてそれが人間らしい生活なのか?
「外国人家政婦サービス」って無報酬なん?
削除契約に基づいて報酬が支払われるし、辞めたければ辞められるんならどこを煎じ詰めると共通点があるのか頭の悪い私にわかるように説明してください。
全然煎じ詰めてないな
削除奴隷は無給で外国人家政婦サービスは有給だよ
横からだが
削除※14は、奴隷制との共通点じゃなく、
外国人を家事労働力として雇う側のメンタリティについて述べているのではないか?
同国人ならいいの?家族なら母親なら嫁なら娘ならいいの?
削除良く読め。
削除投稿者の家族も奴隷女性も(元)フィリピン人だ。帰化したかもしれないが同国人を奴隷として使った話だから「外国人家政婦サービス」との共通点なんてどこにもない。まぁ竹中平蔵は嫌いだけどね。
お前みたいにテメーが嫌いな人間を貶めるために悪のレッテルを貼るヤツ大嫌いだわ。
削除※14.d
削除>家族なら母親なら嫁なら娘ならいいの?
家庭内の誰かが家事育児に従事して、他の誰かが外にお金を稼ぎに行ったとして、稼ぎ手と同レベルの衣食住を享受・共有して、対等の立場を認められているなら、それは奴隷って言わない、家族って言うんだ。
家内仕事に従事している人の立場がはっきり保証されていないから、問題になり易いだけだ。
本当の「女性解放」って、主に女性が担ってきたこれらの仕事に明確な保証を与えることじゃないの?
家政婦に一度でも手をあげたり給料払わなかったりしたら
削除次の日からは家政婦の代わりに警察がくることになるよ。
母姉妹は外国育ちで韓国人家政婦に18歳まで育てられた
削除祖母は社長夫人として多忙だったのでほぼ家政婦が躾けも担当した
結果、母姉妹の価値観が韓国人そっくりになった
私は叱られるときに母に細いムチでふくらはぎを叩かれていたが、韓国ドラマに全く同様のシーンが出てきて驚愕した
またヒステリックに喚きたてるドラマの韓国女性の物言いも母によく似ている
外国人家政婦にわが子を育てさせるということは、金を払って大切な子供を外国の価値観に染めるということ
それを知らない人が外国人家政婦導入を言っている
母が一般的な日本の母親とは違うということに思春期にはとても悩んだ
ちゃんとした翻訳でここのサイトはほんといいね 他と違って独特なの多いし
返信削除コメにもあるけど占領する前から奴隷が存在する地域って予想以上に多いからねほんと
負けた相手の幼虫を奪って働かせる虫がいるのを思い出すわ
戦時下の狂気とかじゃなくて、これがごく普通の日常だったというのがツライな
返信削除アメリカ人は
返信削除奴隷制度に
疑問を持たない
頭が悪いと気楽で良いねえ
削除今だに移民に安い仕事させてるもんね
削除何このクソ家族。家族写真を見るとさも日本人家庭のように見えるけど、苗字からするとスペイン系フィリピン人かな?
返信削除続きを見たいけど、きっと助からなかったであろう病気の家族やローラの苦渋に満ちたその後の人生を容易に想像できるだけに辛い。
君は奴隷にされなかった場合の少女の運命も想像してみたかな?
削除広島長崎に原爆落としたから多くの日本人の命が救われたというロジックとおなじ。
削除たとえ飢え死にしても奴隷にするのは許されることではない。
>>18a
削除想像したからこそ、この先更に待ち受けるであろうことが辛いんでしょ
去年の夏休みに、ウチの小学生のチビが読書感想文の宿題で「トムソーヤの冒険」読んでたけど
返信削除昔やってたアニメ、もう地上波なんかじゃ放映できないんだろうね、やっぱり
あーでもせめて何かしらの救いがローラにあったらいいな。。
アメリカ人がフィリピン侵攻して植民地にする時に作った銃だか弾丸の名前が
返信削除これまた酷い名前だった記憶がある
カラーパープルだっけな
返信削除これと似た黒人奴隷少女の映画
救いがなくて辛い。管理人さん、素晴らしい翻訳をありがとうございます。
返信削除続きを待っています。
中国残留孤児も二種類に分かれるらしい。こんなんと、家族として分け隔て無く育てたのと。強欲で手段を選ばないイメージだけど、確かに情の深いのもいる。
返信削除私の大叔母が満州帰りだが、日本に引き上げる際に「息子さん(のどちらか)を養子に迎えたい」と申し出る満人が多数居たそうだ。
削除日本人は頭が良いから、って事で大人気だったらしい。
この話をきいて、かつての中国人の懐の深さと、物凄い現実主義を感じた。
それは同時に一般中国人の日本に対する恨みはそれほどでもなかった、ってことも示しているんじゃないかな・・・。
削除日本軍と、国民党と、共産党と、欧米勢が四つ巴で争っていたけれど、一般庶民にとったら無関係な話でもあったんだろう。むしろ共産党や国民党による被害の方が大きい場面も多かったし、そもそも日本軍を戦争の深みに引き入れたのは毛沢東。
満州は日本が支配してたんだから親日的だよ。
削除今でも旧満州だった東北部は、中国で最も親日派が多い地域として知られている。
満州だけでなく、台湾やパラオといった日本が支配していた地域は超親日国が多い。
朝鮮だけなんだよね。日本に支配されて酷いことされたって言ってるのは。
付け加えれば、今でも韓国などは政権が変わる度に前政権は酷かったと攻撃して牢に入れたり自殺させたりしているから。
削除権力交代の度に旧支配層を叩くのは古くからの伝統というやつなんだよ。
実際に戦争で満州に行ってたじいちゃんは中国人が日本人を恨むのも当然だって言ってた。
削除本当にしたのかはわからないけど誇らしげに今日は何人子供を殺したとか食事中に言い出す兵士もいたそうな。戦争も終わりの方だったから兵士の質も相当下がってたのも一因だろうけど、いい人が沢山いるより悪いやつが一人いるほうが記憶に残るもの。
満州に住んでた金持ちには悪印象はなかったろうけど、学も品も無い、ましてや戦時中で歪んだ心の人たちがいれば嫌われるのも当然だと思う。
日本が嫌われる事実も幾つかあるのは確かなのだから全てに目をつぶって相手の否にするのは悲しくて愚かな行為だよ。
著者の情報を追加:著者のアレックス・ティゾンは1997年にピュリッツァー賞を受賞したフィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。この記事は彼の遺作となっています。
返信削除コメント欄を深層まで読む人は少ないでしょう。
削除本記事に追記した方が、より多くの人に情報を知ってもらえます。
お節介すみません。
続きを心待ちにしています。
昔の奴隷制の話を言い訳にしてるが、戦後何十年も奴隷として扱ったのは重大な人権侵害であり、犯罪だ。この女性の遺族に賠償金を払うべきだし、謝罪もすべきだ。
返信削除なにをセンチメンタルな思い出話にするつもりなんだ?
まあアメリカ人ですからね、自分らが常に正義なんですよ
削除戦時中日本から持ち帰った日章旗の寄せ書きを遺族に返すみたいなお話
情け深くてイイお話ですねぇ
で、それはどうやって入手してなんで持ち帰ってどうして今まで寝かせておいたんですかね
それを知る本人は死んじゃったから分かりませんかそうですか、イイお話ですねぇ
スペイン侵略前にあった現地の習慣としての奴隷制度とスペインが持ち込んだ白人の有色人種差別としての奴隷制度はまったくの別物だと思うんだが、やつらは自己弁護の為に自分たちが始めた訳ではないようなことをぬかす!アメリカ人はやっぱり差別主義のクズだな。
返信削除中東を含むアジア圏の奴隷ってのは基本的に雇用関係で主人は奴隷を養う義務がある。多少ブラックな企業の社長と社員みたいなもん。日本なら安寿と厨子王の話や中東ならアリババの話でフィクションとは言えアジアでの奴隷の社会的位置づけが分かる。
削除一方で西洋の奴隷は言葉の分かる家畜扱いで、法の枠外の存在。
時代小説に出てくるアメリカ人そのものだな
返信削除日本人だって字が読めなかったら同じ目に遭っていたはず
↑26も27もちゃんと読まずに持論を振りかざすのはアホ丸出し。
返信削除その振り回す持論も一知半解の中学生級の持論ですもんね
削除このローラと言う女性が担っていた仕事は、多くの国で主婦が担っていた仕事だ。
返信削除今、子育てしながらフルタイムで働けると考えている人間を見ると、アホちゃうかと思う。もしくは子育てがどんな仕事か、具体的に想像出来ていないと思う。
共働きが当たり前の国は、経済的に崩壊していて男性に仕事がないか、移民が格安で家内労働に従事しているか、どちらか。現代でもあまり事情は変わっていない。
欧米で白人の家族と、アジア人の女性が一緒にいると、アジア人の女性はまず家政婦だと思われる。それくらい有色人種の家政婦が当たり前になっている。
この記事読んで
返信削除怒りでイライラして眠れない
なぜ、日本占領下のフィリピンでというタイトルになるの?
返信削除その時代ってことがいいたいんだと思うよ。つまり今のフィリピンはこういった奴隷的家政婦の文化は当時から変わっているということ。
削除そうかなとも思ったが、それならば「日本が統治していた時代」か、せめて「日本統治下」ではないかと思ったの。
削除いかにも、占領していた日本が悪い、と言いたい様なタイトルに思えるから。
日本が関係する記述もないから違和感を感じた。
それは被害妄想
削除ドゥテルテ大統領が根っからのアメリカ嫌いになった理由を…興味ある人はぐぐるといい
返信削除泣いた…
返信削除救いはなかったかもしれないけど、
アメリカの教育を受けた筆者は奴隷制度について疑問を持っていて、
子どもながらローラを貶める親に反抗したんでしょ
少なくとも、味方がいなかったわけではない
もちろん、あってはいけないことだけど
当時としてはどうしようもなかったのかもしれないね
文章下手すぎだろ(管理人のじゃなくて)
返信削除筆者はローラを雇ってた夫婦の娘か?
私はごく一般的なアメリカ人の子供だったってあるけどフィリピン人の子供だろ?
リンとローラとそれからアニキとオトンと場面がコロコロ変わりすぎだろ
体験談なら視点固定しろよ
これじゃ小説じゃねぇか
夫婦の息子だよ。
削除アメリカは多民族の移民の国だから、フランスから来てもドイツから来ても、帰化すればそれがアメリカ人だよ。アジアから来た人間だけアメリカ人になれないなんてことはない。
まあ筆者が移住した頃はまだアジア系は少なかった筈だし、家庭内はフィリピンの文化を引き摺っていただろうから、「当時の平均的な」アメリカの家庭とは確かに少し違っただろうと思うけど。
でも今はアメリカ人の平均像なんてないも同然位カオスだから、幼少からアメリカで暮らして、アメリカの学校に通っていればそれだけで「平均的なアメリカ人」じゃないかな。
言いたかないが、あんたは文盲だ
削除自分の理解力のなさを誇るとは
オマエが頭悪いんだよ
削除謎のガチギレで草
削除どこにそんな怒るポイントがあったんだかw
確かに、文盲…
削除読解力ゼロだ。
アメリカはフィリピン人に市民権の無いアメリカ国籍を義務化しようとしていた。
返信削除つまり市民としての権利が何一つ無い奴隷、その法律ができる直前に日本がフィリピンを解放した、本当にギリギリのタイミングだった。
フィリピンって1941年に日本が占領するまでアメリカの植民地だったんだがなんで日本の占領下なの???
返信削除それに話の内容もフィリピン独立後の話だし。
管理人は、日本を下げをする勢力の人なんだね。
読んでないでしょ?
削除この女性が一家の元に買われて来たのが、フィリピンが日本の支配下にあった1943年。それから56年間奴隷だった。タイトルは別に間違ってない。
ネットにコメントしてる人の知的水準はてんでバラバラなのは当然として、やはり平日の深夜にコメントしてる人の程度の低さは一目瞭然ですよね。
返信削除はいブーメランw
削除さすがにワロタ
削除知見が広がる
返信削除読む価値のあるものだと思います
翻訳大変だと思いますが、待ってます
日本は昔から奴隷という概念は一般的じゃ無い、貧しく子供を商家に丁稚に出しても、仕事を覚えたら少なくても
返信削除給金は貰えるし逃げ帰る事も出来る。貧困から娘を女郎に売っても些少でも金は払われたし、年季が明ければ解放された。
しかし日本以外の国は、金は所有者間のやり取りで賃金も無く一生続く。所有者。
「奴隷」と言いながら買った訳じゃ無い、騙してさらったんだよな。洗脳した「人さらいだよ」
最終的にはなぜか日本が悪いことになるんだろ
返信削除とりあえず、続きを待とうじゃないか。批評も考察もそれからだ。ディベートは後編で。(決して自分が読む際にコメントがばらけるのが面倒だから提案してるんじゃ無いんだぜ?)
返信削除>母の目には、それまで見たことのない何か暗い影が映っていた。嫉妬?
返信削除>「お前はローラーの味方をするのか?」と父は言った。
ここで咄嗟に嫉妬と感じるこの状況の異常性が面白い。
普通の家庭であれば親への反発や自立心の萌芽で片付けられてしまいそうなものを
カンボジアじゃ今でも白人のジジイが幼女買い付けてるし
返信削除イギリスじゃロシアを始め東欧女性の人身売買ブローカーを政府が見て見ぬ振り
今でもどこの国でも隠れてやってるやつが居る、ここ名古屋はjkビジネス日本一の恥晒し
フィリピンって元々奴隷制あったんだな
返信削除奴隷制って言うか人身売買だな
返信削除子供沢山産んで親は外国人に売ってた
その腐ったシステムを壊しに来た日帝
儲けがなくなった親は日本に恨みをもち
日帝のせいで売りましたと戦争終わってから世界中に風潮したんだろ
そして今に至る
>フィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。この記事は彼の遺作となっています。
返信削除>56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために。それは2017年7月の出来事だった。
2017年3月に亡くなってるのに、2017年7月の出来事って???
年月間違ってないか?。
ご指摘ありがとうございます、原文で"昨年の7月"と書かれていたのを勘違いして"2017年"としてしまいました。正確には"2016年7月"です。修正しました。申し訳ありません。
削除秀吉のバテレン追放とか、江戸時代のキリスタン弾圧とかも 日本人が奴隷として海外に売買されてるのを知った秀吉が激怒したって話あるよね
返信削除公益の利益&バテレンが秀吉に自慢(脅し)した新型軍艦による武力もあっただろうに
戦国時代は農閑期に農民に武器を持たせて兵としてたし、ある程度の尊敬を受けてなければ(攻めてきた領主の方が魅力的なら)本気で戦わないだろうし
そう言う伝統が日本には続いてて奴隷ってのが馴染まないんだと思うなぁ
映画を製作したら、筆者の家族は映画から得られる収益を全額、ローラの親族とローラが生まれた村に寄付するべきです。
返信削除“私の家には奴隷が居た”(Alex Tizon)は、フィリピン人米国移民がフィリピン18歳女性を米国まで連れて行き、56年間、家事、育児を無償でやらせていたという話のようである。“奴隷”という刺激的な言葉は、いかにも読者の目を引き付けるであろうが、奴隷の定義によるが、奴隷が「所有の対象として売買できる人で、移動の自由が主人の意思により制限される」という意味であれば、この話の対象となっている女性は、所有の対象ではないし、移動・居住の自由は心理的に拘束されているだけで実質的に拘束されているわけではないという議論が可能となり、奴隷とは言えないことになる。戦前、口減らしの対象となって日本の家庭で子守などのお手伝いをしていた女性と本質は変わりないように思う。しかし、語り口は非常に上手く、引き込まれる。祖父が自殺しているようであるし、全くの憶測であるが、Alex TizonもAtlantic掲載決定直前に自殺したように感じがする。
返信削除