日本に住んで変わったこと4つ。

4 Ways Living in Japan Changed Me by Abroad in Japan

例えばあなたが新しいレストランをオープンしたと想像してみよう。通行人によりアピールするために何かお店を目立たせる工夫がしたくなるはずだ。だから普通のお店は花や きらびやかなネオンで店を飾ろうとする。もしくはフレンドリーな表情のマスコットなんかを用意したりする、時には悪夢からやってきたようなのもいるが。



先日コーヒー屋さん探して東京の街をうろうろと さ迷い歩いていた時、お店の前に不思議なものが置かれたうどん屋を発見した。きっとオーナーはこう自分に問いかけたのだろう、

どうすればこのお店をもっと人目を引くものにすることができるだろう?

そしてたぶんこんな結論に達したはずだ。

「よし、ここはムカデ人間のオブジェを店の前に並べよう!」


そう、そこにはあの2010年に公開されたホラー映画「ムカデ人間」の非常に不快なシーンを再現したかのようなオブジェが並んでおり、そこには「食事を楽しんでくださいね」などというメッセージは存在しない。



驚くことは減ったが...

日本に住んで4年になる、来日した直後は驚かされることが多かったが今はそうでもない。ただ困惑させられることは未だに多い、

これは...日本以外の国の人が見たらどう思うのだろう?」と。

例えば昨日、高級な服のブティックの前を通りかかったのだがそのお店の名前は「Rope Picnic」というものだった。


私がこの言葉から思い浮かんだのは、ロープを使ってこの世からおさらばすると決めた友人のため最後にピクニックでもして楽しい思い出を作ってやろうとしている、そんなシーンだ。別に文法的に間違っているわけでも綴りが間違っているわけでもないが非常に奇妙なフレーズに思えてしまう。

同様に日本でとても人気のあるスポーツドリンク「ポカリ・スウェット」という商品もそうだ。おそらく多くの国の人々は「」という単語が入った飲み物を飲みたがらないであろう。だがそれも日本ではまったく問題とは思われていない。



そして今手元にあるこの棒状のチョコレート菓子「Sukky」だ。(suck/sucky:吸う、しゃぶる、嫌な)通常はポッキーという名称で販売されているものだがこれはバレンタインデー用のロマンティックなギフトバージョンになっている。ちなみに日本のバレンタインデーについて詳しく知らない人もいるだろうから説明するが、日本では2月14日に女性が男性にチョコレートを渡し好意を示すというイベントがある。そして1ヵ月後の3月14日には男性がそのお返しをするのだがその日を「ホワイト・デー」と呼ぶ。意味深だ。

だがこのサッキーのロゴの真下に「あなたが、好きです」というフレーズが記載されているように、これはとても簡単に相手に好意を持っていることを伝える事ができるツールとなっている。この「sucky」をプレゼントすることによって。別に深い意味はないはずだ。

日本に初めて来た時はおかしかったり奇妙に感じたりすることが多く それらを紹介するビデオを投稿していたが、今回は日本で4年間過ごすうちに私にどの様な変化が起きたかについて話したいと思う。もちろんこの国のほんの一部しか知れていないしまだまだ見るもの、学ぶもの、体験するものは多いがYoutubeに投稿するビデオがこれで100本目になる記念としてだ。

このサッキーはロープピクニックにでも持っていくことにしよう。

態度、立ち居振る舞いの変化

日本で日々を過ごしていくうちに、私は間違いなく以前より周囲の人に気を配るようになったと思う。日本文化ではたくさんの定型表現、要はお決まりの言葉や行為が存在する。例えば感謝の気持ちを表すものだ、おそらく仏教文化に関係したものなのだろう。それらはほんの数ヶ月過ごしただけで身に染み込んでしまう。

よく使う表現として「お疲れ」または「お疲れ様でした」という言葉がある。これは英語に訳すのが難しいが基本的には相手の仕事に、あるいは苦労や骨折りに感謝する時に使われる。英語教師として学校で働いている時、同僚や学校のスタッフ、通路を通り過ぎる生徒などからおそらく1日に100回はその言葉を聴く。長い仕事を終えた一日の最後にその言葉を互いに掛け合うのはとてもよい気分にさせてくれる。それはそれぞれ皆が自分の役割を全うしたことを認めう行為だからだ。



もうひとつの例は食べる時に使われる2つの儀式的な表現、「いただきます」と「ごちそうさまでした」だ。毎回食事の前に手を合わせて「いただきます」とこの食べ物に関わった全てに感謝の意を表し、同様に今度は食事の後に「ごちそうさまでした」という言葉を口に出す。短くシンプルだがとてもいい表現で自分の食べた食事に払われた犠牲に対し感謝する気持ちにさせられる。特にそれらが習慣づくと尚更だ。

イギリスでは食事の前の感謝など無くなって久しいし、今では食後に言われる言葉は

「おい、テレビのリモコンはどこだ? トップギアが見たいんだよ。」


「...やっぱ見ないでいいや。」などといったものだ。



もっと物質的なものに対して敬意を表すのも日本ではよくあることだ。 例えば名刺は日本では聖杯のように扱われる。名刺はその人の身体の延長であるかのように大切に扱い、じっくりとその書かれた情報を読み込み、その人の姿が見えなくなるまでしまってはいけない。そういった姿勢は自分の所有物に対する扱いにも影響しているのだろう。



私はよく中古品販売店に足を向けるのだが発売からもう30年近く経過しているスーパーファミコンなどはかなり状態が良く、丁寧に扱ってきたのだと理解できる。この国に来て良かったと思える事の1つだ。だがその様な姿勢とは対照的に私は物をぞんざいに扱ってきた。



9年前、当時所有していたXbox 360が故障した、あの有名なレッドリング・オブ・デスが点灯したのだ。今でも鮮明に覚えている、あまりの怒りに当時所有していた車でそのXboxを3回ほど轢いたあの感触を、そしてそのせいでタイヤがパンクし新たに70ポンドほど修理代を出すはめになったあの時に感じた憤りを。それ以来Xboxは買っていない。

(※レッドリング・オブ・デス:マイクロソフト製ゲーム機Xbox360に不具合が起きた時に赤く点灯する状態。その故障率の高さから有名。)



また日本に来てからより他人に対して思いやりを持つようになったと気付いた。日本は集団主義的な文化を持つ国で個人主義文化圏よりも集団に重点を置く。それに影響されたのだろう、気が付けば周囲にいる人の気持ちを察するようになった。以前より思慮深く行動するようになったし周りの人に迷惑をかけないようにと気を使うようになった、例えば公共の場で大声で話したりしないようにだ。

よく知られていることだとは思うが日本の電車内では静かにしなければならない、騒いだりする人は軽蔑の対象でありしてはならないことだ。日本に住む人以外はそのようなルールを窮屈に感じるだろうし私も100%納得できていたわけではなかった、イギリスに一時帰国するまでは。


クリスマスにロンドンに電車で向っていた時のことだ。私の真後ろの席の人が大声で楽しそうに電話でくだらない身の上話をしていた、40分以上だ。


あまりにも五月蝿いので途中思わず振り返りその人に私のXboxに何が起きたのかを大声で聞かせてやろうかとも思ったが、電車内で静かにしないことはイギリスでは普通のことなのだと気が付き止めた。周囲の他人にそこまで気を配る必要はこの国ではないのだ。

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しゃべり方の変化

良く人に質問されることがある。日本に来てから自国の言葉でのコミュニケーションや話し方などに影響はあったかと。答えはイエスだ。なぜなら毎日私は日本の同僚や学生などと接しているのだから。彼らは英語でのコミュニケーションが完璧ではないので私もアクセントを抑え目にしたりイギリス的な話し言葉を使うのを避けるようになり、慣用句の使いどころも考えるようになった。

例えば「when pigs fly」(豚が空を飛ぶ時→豚が空を飛ぶなんてあり得ない→あり得ない)などと言っても理解してもらえない。また皮肉表現も注意が必要で以前 同僚が「クリスさん、今度北日本マラソン大会が開かれるのですが参加してみませんか?」と聞いてきた時も「You Know what Mr.Saito, I'd rather slam my fingers in the door.」(斉藤さん、そりゃ指をドアに挟まれる方がマシですよ。)と答えたのだが まぁうまく伝わるはずもなく怪訝そうな顔をされた。素直に行く気はないと伝えるのが正解だ。

イギリスのユーモアと言うものは皮肉や微妙な、遠まわしな表現に頼っていることが多く英語が堪能でない人には不確実に伝わってしまい時には相手を不快にしてしまうこともある。

期待値の変化


2年ほど前の休暇に友人のナツキを連れてイギリスに帰った時のことだ。彼にロンドンを案内してあげていたのだが駅の改札口でナツキのチケットが改札機に詰まってしまった。私の持っていたチケットと全く同じもので私のほうは問題がなかった。そこで駅員を呼んで事情を説明したら駅員がおもむろにそのチケットを別の改札機に入れたところ、その改札機のドアは何事もなかったかのように開いた。

私たちは駅員になんでさっきの改札機では駄目だったのかを聞いたら駅員は肩をすくめながらこう答えた。

そりゃイギリスだからね。

なるほど、それは真っ当な弁明だと私のほうは納得したのだがナツキは全く理解できていなかった。日本ではそんなことも、そんな返答もありえないから当然のことだ。イギリスでは物事がうまくいかないこともあるし、それを放っておくこともしばしばあることだ。日本では自動販売機は飲み物や食べ物を買う機械だがイギリスではお金を入れてもちゃんと出てくるか分からないギャンブルマシーンだ。




あまりにも日本ではそういった問題が起きなさ過ぎるのでそれが当然だと思ってしまっている。食べ物に関しても日本ではどこへ行っても大抵良い食事が出てくる。レトルトや冷凍食品、コンビニの弁当等の様な直ぐに食べられる食事も味はある程度保証されている。だがイギリスではそんなこはない。


私が学生時代によく食べていた直ぐに食べられる食事などは見た目も味も"失望"という言葉しか頭に浮かばないものだった。安く直ぐに食べられるものはそんな物しかなかったので他の選択肢はなかった、自分で料理をするようなマメな人間ではなかったのでそれで我慢していた。



日本の直ぐに食べられる食事はイギリスのものよりも安いことが多いだけでなく見た目も味もまさにまともな食事だ。



そしてそれらには理由がある。日本は不確実性回避指数が高い(High Uncertainty avoidance)要はリスクに対する許容度が低い国に分類され、不確実性が高い状況に対して不安に感じる傾向が強い。一方イギリスはまさに真逆で不確実性回避指数が低く、不確実性が高い状況を普通のことだと感じる傾向が強いことが影響しているのだろう。

そんな日本に住んで、気が付けば物事が期待した通りに運ぶ、食事は当然のように味がいい、それらが自然なことだと思うようになっていた。それは必ずしも良い事ではないと思う、予期せぬ面白い出会いというものがイギリスに住んでいた頃よりも日々から消えていったからだ。コーヒーショップでぼんやりとしていると誰かが話しかけてくるなんてこともここではまず起きないし期待もしてない。

最後に

とまぁ以上が日本に住んで変わったことだ。本当はもっとあるのだがこれらが最も大きな変化だったと思う。

日本に住んでより良い人間になったか? 答えはたぶんNOだ。
日本に住んでより良い印象を人に与える人間になったか? これも答えはたぶんNOだ。
日本に住むと決めたことは人生最良の選択だったか? 間違いなくYESだ。

日本に来てから一日もこの国に来たことを後悔したことなどなかった。
いつも後悔することはあるがね。

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