米国マサチューセッツ州のラジオ局WBUR-FMより

テキサスから東京へ:いかにしてアイラ・ブラウンはバスケットボールを通して家族を見つけたか

From Texas To Tokyo: How Ira Brown Found Family In Basketball March 10, 2017 by Abigail Leonard

イントロ:
日本で最初にバスケットボールの国際試合が行われたのはいつか、皆さんご存知でしょうか? それは1917年5月です。そう、なんと1917年。1891年にアメリカで考案されたこのスポーツは我々が想像した以上に日本で歴史があるスポーツだったのです。それから1世紀、日本でのバスケットボール人気は浮き沈みを繰り返してきました。

日本のクラブチームは、他の国のクラブチームと同様に自分達のチームの人気を高めるためにアメリカからバスケットボールプレイヤーを招き入れてきました。そして数多くのアメリカ人プレイヤーが海を渡りました。その多くは本国で活躍の場を失い、自身の選手生命を延長させるために渡ったプレイヤーたちです。

ですがこれからご紹介するストーリーの主役、アイラ・ブラウンの場合はちょっと事情が違うようです。テキサス州で育った彼が日本でプレイし続ける理由、それは彼が日本でようやく"家族"と呼べるものを手に入れたからだといいます。

では日本を拠点に活動しているジャーナリスト、アビゲイル・レナード(Abigail Leonard)氏が彼に取材した様子をお聴きください。
~イントロ終わり


外国人「日本に帰化した黒人バスケ選手の話に感動した」(海外の反応)
東京都心の試合の夜、2016年9月に日本のトップリーグである"日本プロバスケットボールリーグ"と"ナショナル・バスケットボール・リーグ"が統合され新たに"ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ"として生まれ変わった最初のシーズン、会場のスタンドを埋める人々の多くはこれまで試合を見たことがなかった人たちだ。

ホームで試合を行っているクラブチーム"渋谷サンロッカーズ"はそんな観客を魅了すべく派手な活躍を見せつけようとしていた。そしてフォワードのアイラ・ブラウン(34歳)がチームの期待に応えダンクシュートを決め、観客から歓声が上がった。

テキサス州で生まれ育った193cmの肩幅の広い黒人プレイヤー、そんな彼が最終的に行き着いた場所が東京だったということを意外に思う人がいるかもしれない。だが日本のプレースタイルはアイラ・ブラウンがここにいる理由の一部である。

アイラ選手: 「日本に来る元NBAのプレイヤーの多くがボールを支配するようなプレースタイルをしようとする。それはそうだろう、アメリカではそうしなければならないのだから。でも日本では必ずしもそれが必要というわけではない。日本のクラブチームがプレイヤーに求めるものは良いチームプレーヤーなんだ。」

アビゲイル記者: 「あなたの言うボールを支配するようなプレースタイルよりも、そちらのスタイルの方があなたは好きですか?」

アイラ選手: 「ああ、私はこのスタイルが大好きだ。なぜなら私にとってはこちらの方がより... 何と言ったらいいかな、家族志向というか。チームが成功すると、私が成功したように思えるんだ。」

辛い子供時代

アイラ・ブラウンにとって強い繋がりのある安定した家族を持つことはとても重要だという、それは彼の生まれ育ったテキサス州コーシカーナでは存在しなかったものだからだ。

アイラ選手: 「私の家族の大人たちは皆ドラッグを常用していた、母と父はドラッグの中毒者だった。家に帰ると母がクラック(高純度のコカイン)をキメているか、父が同じことをしているか、まぁそんな光景ばかり目にした。生活はどんなものだったかというと... そうだな、寝る時は床に寝るか、散らかった服の上で寝るか、いずれにせよまともなベッドで寝れたためしがないと言えばなんとなく伝わるかな?」

アイラ・ブラウンが言うには、彼の家では水道が使えず洗濯やシャワーを浴びることもできなかったという。そのため学校で彼と彼のいとこは悪臭をからかわれ、"ダーティブラウン"と呼ばれ常にケンカになったそうだ。

アイラ選手: 「もちろん私は絶望感でいっぱいだった。でも貧しいままで、悪臭を放つままで、そんなクソみたいな生活のままで良いとは思ってなかった、何かしなければならないことは分かっていた。」

「だから私はお金を手に入れるために知り合いから芝刈り機を借りて近所で芝生を刈るバイトをしたり、時にはペカンナッツ(北アメリカ中南部原産のクルミ科の落葉高木ペカンの種実)を拾い集め地元のペカンナッツ工場に売ったりしていた。本当に何でもしようと思ったら小さく力がなくてもお金を稼ぐことができる、私はお金が欲しかった、それも人の道に逸れない方法で手に入れたいと思ったんだ。」
アイラ・ブラウンが9歳の時に彼の不運はピークに達する

アイラ選手: 「その家にはかなりの親族が住んでいた。3ベッドルームの家にはおそらく20~25人の家族がいたはずだ。」

ある日、彼と彼のいとこ達は同じブロックに住む家族が起こした荒っぽいケンカに巻き込まれる。

アイラ選手: 「そしてその晩、彼らは私たちの家に火炎瓶を投げ込んできたんだ。その火は燃え上がり家を全焼させてしまった。」

家族は散り散りになりアイラ・ブラウンは彼の祖母と一緒に暮らすことになった。彼女は糖尿病で両足を失ってしまったが前向きな態度を保ち続け、どんな逆境も乗り越える強い意志を持った女性だったと彼は語る。彼は彼女から大いに刺激を受けたという、そして新しい学校の数学教師ミルトンからも。

アイラ選手: 「彼は私の父親代わりみたいな存在だったね、毎週一回は彼の元を訪れていたよ。先生はいつも巨大なリングを指にはめていた。私はいつもそれで遊ばせてもらったよ、触ったり眺めたり自分の指にはめたりしてね。それは何かの優勝リングとかだったと思う、具体的に何の大会のものだったははっきりと覚えていないが。」

夢を見る

アイラ・ブラウンはそのリングに大いに刺激され大きな夢を見れるよう、そしてそれに向かって突き進めるようになったという。その後彼は高校のバスケットボールと野球のスターになり、高校卒業後には2001年のメジャーリーグベースボール・ドラフトでカンザスシティー・ロイヤルズから指名された。

アイラ選手: 「私のキャリアの最初は先発投手だった、後半はリリーフ投手で球は最速で時速97マイル(156km)だった。」

2004年にはマイナーリーグクラスAまで昇格したものの肩の故障のため2005年に引退、彼は大学に行きバスケットボールをすることなる。そして彼はワシントン州の私立大学ゴンザガ大学を選んだ、最も魅力だったのは暖かいコミュニティだったという。

アイラ選手: 「どの大学にするか決めようと様々な大学を訪ねた中で、私はその場所を本当に気に入ったんだ。誰もが互いのことを知っている、それは大きな家族のようなコミュニティだった。」

垂直跳びで49.5インチ(約126cm)跳ぶことができた彼は競合する選手の上を飛び、チームは彼を大いに誇りに思った。

ゴンザガ大学時代の映像


そこでアイラ・ブラウンはついに彼が子供の頃から夢見てきたリングを手に入れる、それも3つも。

アイラ選手: 「WCC選手権は2年連続で、そしてNCAA選手権でも勝利しリングを手に入れることができた。」(WCC:東海岸競技連盟、NCAA:全米大学体育協会男子バスケットボールトーナメント)

ゴンザガ大学を卒業後はNBAデベロップメント・リーグで短期間活躍、その後彼は海外のメキシコ、アルゼンチン、フィリピンのバスケットボールで活躍し、最終的に日本のチームに行き着くこととなる。

家族を捜し求めて

試合をするために疲れたサラリーマンと人形のように着飾った原宿ガールと共に電車に乗って東京の会場に向かう、アイラ・ブラウンはそんな日本での暮らしを楽しんだという。

だがそれでもまだ、彼の幼年時代の記憶は彼を悩ませ続けていた。両親の罪を繰り返すことを酷く恐れた彼は信仰に頼り、断食をし姦淫を避ける生活を続けていたという。それは非常に厳しいものだった。

アイラ選手: 「それは本当に辛い日々だった、何度こんなことは耐えられないと思ったか知れない。主よ、敬虔な信者でいて欲しいとお思いならお願いですから私に妻となる女性を送ってください、とか思ってたね。」
それから数週間後、彼は友人の誕生日パーティーでアヤカと出会った。

アイラ選手: 「私達は出会って直ぐ、ソファに座って3時間ぶっ続けで会話に花を咲かせた。私はもう"きっと彼女は私の妻になる人だ"と直感したね。そして案の定、私達は結婚した。」

彼女は彼が求め続けてきた"強い繋がりのある安定した家族"をもたらした。

アイラ選手: 「私たちは彼女の家族とも親密だ、彼らの世話をするのも全く問題に感じない。なぜなら私は日本の、年配の人を大事にするという文化を本当に賞賛している。」

彼は日本に帰属し、日本国籍を取得することを決意する。それは簡単な道のりではなく申請プロセスには2年がかかり難しい言語テストもクリアしなければならなかったという。

アイラ選手: 「テストの最後には"あなたの趣味は?"と書かれていた。私は相撲を見たり、寿司を食べたり、温泉に行ったりするのが趣味だと書いたんだがあれが良かったのかもしれない、何とか合格する事ができたよ。」

外国人「日本に帰化した黒人バスケ選手の話に感動した」(海外の反応)
日本国籍の取得は彼のバスケットボールのキャリアにも役立った。日本のバスケットボールリーグのルールはプレイできる外国人の数を制限しているが、日本人となった彼はチーム全体に大きな利益をもたらしている。

そしてそれは彼が日本代表チームでプレーできることも意味する。昨年、彼は地域選手権のためにイランに赴いた。このまま行けば東京オリンピックで活躍する事も可能かもしれない、彼はそれを心から望んでいた。ちなみに日本の男子バスケットボールは1976年のモントリオール五輪から約40年間オリンピックの舞台から遠ざかっており、予選を通過することは悲願となっている。

日本では新しいバスケットボールリーグが誕生するなど注目が集まっておりそれにつれて多くの子供たちがバスケットボールに触れるようになってきた、そして彼らは刺激を受けるためにアイラ・ブラウンに目を向けている。

試合が終わると"渋谷サンロッカーズ"の選手たちは来てくれたファンに感謝の意を表し礼をする。その後ファンはコートサイドに集まり、アイラ・ブラウンは彼らとハイファイブを交わしとびっきりの笑顔を見せる。

それはテキサス州コーシカーナの小さな町から非常に長い道のりだった。しかし彼は毎年夏になるとその街の子供たちにバスケットボールシューズを寄付し、少しの希望を与えるために戻るという。

「配られたカードが絶望的だったとしても諦めてはいけない。どんなに酷い環境であってもどんなに困難な状況に追い込まれようとも、いつでも成功するために何かできることがあることを理解して欲しい、私はただそれを彼らに伝えている。」

(この記事は2017年3月11日に米国マサチューセッツ州のラジオ局WBUR-FMで放送されたものです。)

(アイラ・ブラウン(1982年8月3日生まれ)は2017年6月にSR渋谷から契約満了となるも、同月に琉球ゴールデンキングスとの選手契約基本合意しました。琉球ゴールデンキングスHPより。)

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海外の反応

reddit.comのコメント欄より: ソース


brbrippin いい話だった。彼が幸せと成功を掴めたようでとても嬉しい。

finbarwaterford これはバスケットボールを通じて貧困と悲惨な幼年時代を乗り切り、バスケットボールをしていなければ決してたどり着く事はなかっただろう国で平穏な生活と家族を見つけるという素敵な話だ。

rossome13 ゴンザガ大学に通ってた。アイラ・ブラウンは時折フープフェスト(毎年開かれる3on3のトーナメント)に参加し、ばったばったと対戦相手をなぎ倒していた。私はずっと彼のファンだったよ。

freshsloth 私も実際に見たことがある、この男のゴンザガ大学でのプレイはまさに野獣といった感じだったな。

YamanekoBlues 人を勇気付けるいい記事だったと思う。

mgmfa 日本に帰化したアメリカ合衆国出身のプロバスケットボール選手では桜木ジェイアール(旧名はジェイアール・ヘンダーソン)なんかがいるね。彼はあのスラムダンクの主人公・桜木花道から名前を取ったんだ。


※「桜木」と言う苗字は「桜の木は希望や明るい気持ちを与える。そのような存在でいたいから」と言う思いから付けられた。なお、日本のバスケットボール漫画『スラムダンク』の主人公・桜木花道と同姓であるが、ジェイアール本人はそれまでその漫画の存在を知らず、全くの偶然だという( wikipedia)

MrMaori 凄いな、髪の毛はちゃんと赤いのだろうか?
(※実際はスキンヘッドです。)

MugiMartin きっと彼もREBOUNDO KINGUなのだろう。

movablesailor リバウンドを制するものは試合を制す!

Captain_Vegetable アイラが最終的に良い家族を作れたのは本当に良かった。それと彼のコメントで日本のバスケチームは個人よりもチームに主軸を置いたプレイスタイルをしていると知って他の国ではどうしているのか気になった。ヨーロッパのバスケットボール事情なんかは割りと聞こえてくるけどその辺の話はあまり聞かないし。

daivaras24 国の代表に外国から来た人間を入れるという話を聞く度にモヤっとする。国を代表する誇りはどうなってんだ?

randperrinmatt 彼は日本のプロリーグで何年も活躍し日本人と結婚し日本国籍まで取得している。もし外国人がアメリカで同じ事をしたとして、それでもそんなことを言えるかい?

Aaronplane ナイジェリア出身のアキーム・オラジュワンは米国籍を取得し1996年のアトランタオリンピックで米国代表として金メダルを獲得しているしな。

sYoshi122 バスケットボール試合後の彼と彼の妻の姿を現した写真がこちら。左から2番目のが奥さんだったはず。


Ira Brown Posing After a Basketball Game

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