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アメリカ合衆国のリベラル系オンラインメディア『ハフポスト』より
今週の日曜日は母の日だ、今アメリカ中の人々がどんな花やスイーツ、プレゼントを贈るかで、あるいは定番の "ベッドで美味しい朝食 VS 気合の入ったブランチ" のどちらをするかで悩んでいることだろう。
アメリカにおける『母の日』の歴史は19世紀にまでさかのぼる。1861~1865年の南北戦争が始まる前からウェストバージニア州で女性による社会活動を展開していたアン・リーブス・ジャービスという人物が女性の教育を通して母子の衛生状態や健康状態を改善することを目的とした「母の日ワーク・クラブ」(Mother's Day Work Club)を組織し活動していた。
彼女らは南北戦争中には南北双方の負傷兵を看護する活動も行い、戦後はかつての敵同士を結びつける平和活動も行うようになる。
1907年に亡くなったジャービスを偲びその娘のアンナは1908年の5月10日に母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会を催し白いカーネーションを贈る、これがアメリカでの母の日の起源とされている。
彼女の働きかけによって『母の日』は多くの市や州で祝われるようになり、1914年には5月の第2日曜日が正式に祝日と定められた。だが次第にこの祝日は商業利用されるようになり、『母の日』の立役者となったアンナ自身が本来の "彼女の母、アン・リーブス・ジャービスを祝う日" から離れていくこの祝日に対し反対活動を行うという皮肉な結果を生んでしまう。
彼女の思いとは裏腹に全ての母を対象とした "日頃の母の苦労を労り母への感謝を表す" というコンセプトは現代のアメリカ人の間で定着している。 これがアメリカの母の日の由来だが母親を敬う休日を持つ国はアメリカだけではない。他の多くの国にも『母の日』があり、それらは独自の伝統だったりアメリカの母の日から影響されたものだったりするのだ。ではさっそくそれらを見ていこう。
だが『父の日』や『母の日』は両国で基本的なコンセプトは変わらない。日本では『母の日』はアメリカと同じく5月の第2日曜日に行われ、母親に赤いカーネーションをプレゼントし祝うのが一般的だ。また母親が亡くなっている場合には白いカーネーションを着用する。
一方で菊(Chrysanthemum)も非常に人気のある花の選択肢となっている、母親を "mum" と呼ぶからだ。また叔母や祖母も感謝の対象となっている。
当時子供たちの多くは家から離れ教会などへ奉公に出ていたが、この特別な日曜日には家族と再会し母教会に礼拝するための休みが与えられていた。自宅への帰り道で見つけた花や予め用意しておいた特別な食べ物を母親に贈っていたという。
20世紀初頭には自宅で家族と過ごしグリーティングカードやプレゼントを贈るアメリカ風の『母の日』と融合したがその名前と開催日は残している。
現代のイギリスの『母の日』はアメリカのものとそう大差はないがいくつかイギリスらしさを見ることができる。例えば伝統的なマザリングサンデイの食べ物に果物、香辛料、マジパンが豊富に含まれたシメルケーキがある。ただし最近は『母の日』よりも『イースター』に関連付けられることが多くなってはいる。
人々は母親を連れて通いのレストランで食事をする。またメキシコの音楽を演奏する7名ないし12名で編成される楽団『マリアッチ』が恋人ほか愛する人や尊敬する人にささげる曲である「Las Mananitas」がそこら中のレストランで演奏する光景を見ることができる。
メキシコのレストラン経営者協会の会長であるマヌエル・グティエレス氏は2012年にワシントンポストに対し、『母の日』はレストランにとって最も忙しく、最も重要な日であると語っている。
日々掃除をし、料理をし、家族のために働く母親に対し少なくとも年に1日は母親を連れ出して誰かに料理をしてもらわなければならないとメキシコ人は思っているとのことだ。
カイロ・アメリカン大学によると現代のエジプトの『母の日』はエジプトのジャーナリストであるムスタファ・アミン(Mustafa Amin)氏の活動によって1956年3月21日に最初に祝われ、時間とともにこの地域の他の国に広がったという。
彼は1943年の著書でアメリカの『母の日』の文化を紹介するが当時は広まることがなかった。後にエジプトの日刊紙『Akhbar el-Yom』を設立した彼は、未亡人の母に育てられ医者になったが母親に十分な感謝を伝えることができずにいた息子のエピソードを聞きそれを記事にする。強い反響を得て彼は『母の日』を開催するように働きかけて行く。呼びかけが実り、1956年3月21日に初めてエジプトで『母の日』が行われた。
イエスの復活・昇天後に信徒たちの上に神からの聖霊が降ったという出来事を記念するキリスト教の祝祭日であるペンテコステが復活祭から数えて50日後に祝われる移動祝日であるため、その日と重なった場合は6月の最初の日曜日になる。
世界の他の国と同様に母親を祝い、食べ物やプレゼントを贈り、リラックスしたひとときを過ごしてもらいながら家族との時間を楽しんでもらう。花や花の形のケーキ、手作りの贈り物や自作のポエムなどを贈るのが一般的。
また国からのMédaille de la familleという多産の女性を表彰する勲章(メダル)の授与も行われる。
伝統的に娘が野菜、バター、スパイス、チーズを持ちより、息子が子羊や牛をなどの様々な種類の肉を持ちより細切れ肉料理を作る。
ソ連崩壊後の1998年にロシアは11月の最後の日曜日を『母の日』としたが、今でも引き続き3月にプレゼントが贈られている。
最初に『Muttertag』が行われたのは1922年であり、その後1926年にオーストリアで行われた。第二次世界大戦中には『母の日』は "祖国のために子供を産んだ女性を称える日" として政治的意義を持つようになり、産んだ子供の数に応じて金、銀、または銅のメダルが授与されていた。
“Mother's Day”
by
Loren Kerns
is licensed under
CC BY 2.0
世界の『母の日』の伝統とは?
Mother’s Day Traditions Around The World - 05/09/2018今週の日曜日は母の日だ、今アメリカ中の人々がどんな花やスイーツ、プレゼントを贈るかで、あるいは定番の "ベッドで美味しい朝食 VS 気合の入ったブランチ" のどちらをするかで悩んでいることだろう。
アメリカにおける『母の日』の歴史は19世紀にまでさかのぼる。1861~1865年の南北戦争が始まる前からウェストバージニア州で女性による社会活動を展開していたアン・リーブス・ジャービスという人物が女性の教育を通して母子の衛生状態や健康状態を改善することを目的とした「母の日ワーク・クラブ」(Mother's Day Work Club)を組織し活動していた。
彼女らは南北戦争中には南北双方の負傷兵を看護する活動も行い、戦後はかつての敵同士を結びつける平和活動も行うようになる。
1907年に亡くなったジャービスを偲びその娘のアンナは1908年の5月10日に母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会を催し白いカーネーションを贈る、これがアメリカでの母の日の起源とされている。
彼女の働きかけによって『母の日』は多くの市や州で祝われるようになり、1914年には5月の第2日曜日が正式に祝日と定められた。だが次第にこの祝日は商業利用されるようになり、『母の日』の立役者となったアンナ自身が本来の "彼女の母、アン・リーブス・ジャービスを祝う日" から離れていくこの祝日に対し反対活動を行うという皮肉な結果を生んでしまう。
彼女の思いとは裏腹に全ての母を対象とした "日頃の母の苦労を労り母への感謝を表す" というコンセプトは現代のアメリカ人の間で定着している。 これがアメリカの母の日の由来だが母親を敬う休日を持つ国はアメリカだけではない。他の多くの国にも『母の日』があり、それらは独自の伝統だったりアメリカの母の日から影響されたものだったりするのだ。ではさっそくそれらを見ていこう。
日本の『母の日』
第二次世界大戦後に日本は『父の日』や『母の日』、バレンタインデー、クリスマスなど欧米の習慣を取り入れるがそのいずれもが独自の進化をしていく。特にバレンタインデーは日米で大きく異なっており、アメリカでは恋人同士や友人同士で性別に関係なく贈り物をするのが一般的だが日本では女性が男性にチョコレートをプレゼントすることで愛を告白するというイベントになっている。だが『父の日』や『母の日』は両国で基本的なコンセプトは変わらない。日本では『母の日』はアメリカと同じく5月の第2日曜日に行われ、母親に赤いカーネーションをプレゼントし祝うのが一般的だ。また母親が亡くなっている場合には白いカーネーションを着用する。
オーストラリアの『母の日』
日本と同じく5月の第2日曜日に祝われ、贈り物としてカーネーションが人気であるという点においても両国は共通している。一方で菊(Chrysanthemum)も非常に人気のある花の選択肢となっている、母親を "mum" と呼ぶからだ。また叔母や祖母も感謝の対象となっている。
イギリスの『母の日』
イギリス版の母の日『マザリングサンデイ(Mothering Sunday)』は レント(四旬節、カトリック教会における復活祭の46日前の水曜日から復活祭の前日までの期間)の第4日曜日に祝われる。その歴史は古く400年以上前の16~17世紀に始まったとされる。当時子供たちの多くは家から離れ教会などへ奉公に出ていたが、この特別な日曜日には家族と再会し母教会に礼拝するための休みが与えられていた。自宅への帰り道で見つけた花や予め用意しておいた特別な食べ物を母親に贈っていたという。
20世紀初頭には自宅で家族と過ごしグリーティングカードやプレゼントを贈るアメリカ風の『母の日』と融合したがその名前と開催日は残している。
現代のイギリスの『母の日』はアメリカのものとそう大差はないがいくつかイギリスらしさを見ることができる。例えば伝統的なマザリングサンデイの食べ物に果物、香辛料、マジパンが豊富に含まれたシメルケーキがある。ただし最近は『母の日』よりも『イースター』に関連付けられることが多くなってはいる。
メキシコの『母の日』
メキシコでは『母の日』は5月10日に祝われる、ただしこれは一大行事だ。人々は母親を連れて通いのレストランで食事をする。またメキシコの音楽を演奏する7名ないし12名で編成される楽団『マリアッチ』が恋人ほか愛する人や尊敬する人にささげる曲である「Las Mananitas」がそこら中のレストランで演奏する光景を見ることができる。
メキシコのレストラン経営者協会の会長であるマヌエル・グティエレス氏は2012年にワシントンポストに対し、『母の日』はレストランにとって最も忙しく、最も重要な日であると語っている。
日々掃除をし、料理をし、家族のために働く母親に対し少なくとも年に1日は母親を連れ出して誰かに料理をしてもらわなければならないとメキシコ人は思っているとのことだ。
エジプトの『母の日』
古代エジプト人は母性を崇拝しており、理想的な母と妻を象徴する女神イシスを称えるために毎年の祭りでそれを祝っていたというが現在は違っているようだ。カイロ・アメリカン大学によると現代のエジプトの『母の日』はエジプトのジャーナリストであるムスタファ・アミン(Mustafa Amin)氏の活動によって1956年3月21日に最初に祝われ、時間とともにこの地域の他の国に広がったという。
彼は1943年の著書でアメリカの『母の日』の文化を紹介するが当時は広まることがなかった。後にエジプトの日刊紙『Akhbar el-Yom』を設立した彼は、未亡人の母に育てられ医者になったが母親に十分な感謝を伝えることができずにいた息子のエピソードを聞きそれを記事にする。強い反響を得て彼は『母の日』を開催するように働きかけて行く。呼びかけが実り、1956年3月21日に初めてエジプトで『母の日』が行われた。
フランスの『母の日』
5月の最後の日曜日に祝われるフランスの母の日『 Fête des Mères』は1950年にフランスの法律で正式に祝日となったがもともとは1806年にナポレオンによって祝日と宣言されたという。イエスの復活・昇天後に信徒たちの上に神からの聖霊が降ったという出来事を記念するキリスト教の祝祭日であるペンテコステが復活祭から数えて50日後に祝われる移動祝日であるため、その日と重なった場合は6月の最初の日曜日になる。
世界の他の国と同様に母親を祝い、食べ物やプレゼントを贈り、リラックスしたひとときを過ごしてもらいながら家族との時間を楽しんでもらう。花や花の形のケーキ、手作りの贈り物や自作のポエムなどを贈るのが一般的。
また国からのMédaille de la familleという多産の女性を表彰する勲章(メダル)の授与も行われる。
エチオピアの『母の日』
エチオピアでは秋の雨期の終わりに行われるAntroshtという3日間のお祭りの一環として母親に敬意を表す『母の日』を祝う。長い雨が去り青空が広がるとそれを祝うため家族が集まり歌と踊りと大宴会をしてお祝いをするのだ。伝統的に娘が野菜、バター、スパイス、チーズを持ちより、息子が子羊や牛をなどの様々な種類の肉を持ちより細切れ肉料理を作る。
ロシアの『母の日』
旧ソ連では、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが提唱し女性を敬い男女平等を目指すことを記念して3月8日に開かれるようになった『国際女性デー』で母親を祝っていた。ソ連崩壊後の1998年にロシアは11月の最後の日曜日を『母の日』としたが、今でも引き続き3月にプレゼントが贈られている。
ドイツの『母の日』
ドイツの母の日『Muttertag』は日本やアメリカと同じく5月の第2日曜日に行われる。ドイツでは特に感謝の気持ちなどを表すためにグリーティングカードを贈るのが人気となっている。最初に『Muttertag』が行われたのは1922年であり、その後1926年にオーストリアで行われた。第二次世界大戦中には『母の日』は "祖国のために子供を産んだ女性を称える日" として政治的意義を持つようになり、産んだ子供の数に応じて金、銀、または銅のメダルが授与されていた。
母の日のカーネーション、子供の頃にとても違和感を感じていました。
返信削除名前も花も外国の物を押し付けられているようで、学校行事のように高額で売り付ける先生方を
冷めた目で見ていました。
我が家の母は毒親で母性など微塵も無い人だったので、無理やり感謝しろと造花を売り付けられる事は
嫌がらせか大人の白々しさとしか思えませんでした。
それと母のいない人が白いカーネーションになる事も、天国に居る母親を思う事に色分けする無神経さ。
「お前は母親が居ないのを自覚し、クラス中に知らせろ」と言っているようで、その子を見る事が出来ませんでした。そして益々大人嫌いになり無口になった。
え?学校がカーネーション売りつけてたの?
削除確実に業者から金もらってるか教師の親族が花屋経営してるかどっちかだねえ
うちは幼稚園か小学校低学年か忘れたけど両親や祖父母の似顔絵描かされたぐらいだよ