アメリカのマサチューセッツ州ボストンにおいて最大の部数を発行する日刊新聞『ボストン・グローブ』より

なぜアメリカ人はパラリンピックを無視するのか?

Why do Americans ignore the Paralympics? - MARCH 01, 2018

"GRIT AND GLORY、不屈の精神と栄光があってもそれが観客や視聴率を保証するわけではない — 少なくともアメリカでは"



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今週の3月9日から韓国で2018平昌パラリンピックが始まる。パラリンピックはオリンピックとワールドカップの続く世界で3番目に規模の大きいスポーツイベントだ。そしてこの障害を持つ選ばれたアスリートたちによるスポーツイベントは世界中の多くの地域で急激に支持を増やしている。

2012年のロンドンオリンピックでは270万人以上の観客が集まり、閉会式ではリアーナやコールドプレイ、ジェイZなどの名だたるアーティストが公演し思わず小躍りしたくなるようなパフォーマンスを披露し8万席のオリンピック・スタジアムは満席だった。

2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックでは日本、英国、ドイツの何百人ものジャーナリストが集まり、陸上男子1500メートルT13(視覚障害のクラス)でアルジェリアのランナーであるアブデラティフ・バカ(Abdellatif Baka)がほんの少し前に行われたオリンピックの金メダリストよりも速いタイムで勝利し金メダルを獲得するのを目撃した。

そして今回の平昌パラリンピックでも世界中の放送局が今後数週間にわたって網羅的な報道/放送を行う予定となっている。しかし世界中でパラリンピックに対する関心が高まろうとどんな活躍があろうとも、アメリカではパラリンピックは大して印象に残らない



" アメリカのメディアは "セクシーで利益の多いエンターテイメント" に支配されている、パラリンピックにその要素は無い"



一応アメリカでも関心が "以前よりは" 高まるかもしれない、アメリカの三大ネットワークのひとつであるNBCは今回のパラリンピックの放送枠を前回の冬季パラリンピックからほぼ倍増しているからだ。しかしその放送のほとんどはセカンダリ・ステーション、NBCではなくNBCのスポーツ専用チャンネルである『NBCスポーツ』や『オリンピックチャンネル』などで放送され、視聴率は低いと予想される。

アメリカでは相変わらずパラリンピックの関連グッズが大量に売れるなどということは望めないし、パラリンピックが雑誌の表紙を大量に飾ることもなければ、ソーシャルメディアで大きく取り上げられることもないままだろう。

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アメリカのパラリンピックに対する無関心ぶりは最早理解が難しい。スペクタクル - 視覚的に強い印象を与えるようなものは他の国の人々と同様にアメリカ人は大好きだ。それにアメリカは長い間、障害者の権利に関しては世界をリーダーだった、事実 障害を持つ人たちの法的保護について言えば、パラリンピックに関心が強い国々よりも数歩先を進んでいる。

だが実際は、法的に受け入れられることと文化的に受け入れられることは必ずしもシンクロしないのだ

1990年7月に成立した『障害を持つアメリカ人法』 は民間企業の雇用における差別や公共的施設における差別、交通機関における差別など障害による差別を禁止するものだが、これは1964年の公民権法が人種、肌の色、信仰、性別、出身国による差別を違法と規定していたものの障害者に対する差別に関する規定がなかったため、 公民権法により保護されていた者と同様に差別からの保護を与えるものとして成立した。つまりはこの障害者の差別を禁止する法律は基本的にアメリカの長い "市民権の伝統" から生まれたのだ。

しかし障害を持つ人々の権利の保護を強化しても、無情にも障害を持つアスリートに対する関心/視聴率は高まらなかった。


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このズレは障害を研究するスポーツ歴史家や学者たちによればかなり根が深く、アメリカ文化の中核にある病的な執着、あるいは強迫観念が問題だという

日本やヨーロッパよりも米国のメディアの状況は若者、性、金に執着していることを反映している。別の言い方をすれば、欠陥や汚点のないクリーンな若者、理想化され定型化されたセックスアピール、 臆面もない物質主義/資本主義だ。

パラリンピックはこの方程式には合わないのだ。パラリンピックをアメリカの生活の中心にある "セクシーで利益の多いエンターテイメント" に変えることは容易ではない。アメリカ人には冷酷な打算が働いているのだ、我々はそれにあまりにも慣れてしまったためそのことにほとんど気付けないでいる。

パラリンピックはそのことに注意を向けるとても良い機会だ、世界の他の地域では関心が高いこのイベントがなぜここアメリカでは低いのかを知るのに。

" 米国には5700万人もの人々が障害を抱えて生活をしている、パラリンピックはそのような障害を抱えている人々の生活に焦点を当てるまたとない機会 "



パラリンピックの物語は20世紀初頭、 ルートヴィヒ・グットマン という若い男から始まる。彼は医学に関心を持ち、母国ドイツの石炭採掘鉱山の病院で用務係としてボランティアをしていた。そこで彼は鉱山事故により麻痺状態になった患者が石膏で包まれ、他の患者から分離されている光景を見て衝撃を受ける。彼らのほとんどが尿管からの感染症と敗血症で5週間以内に死亡した。グットマンはその光景を記憶に刻み込んだという。

その後彼はユダヤ病院で医師となったが、ユダヤ人だった彼はナチスによる反ユダヤ主義が台頭したドイツを離れ1939年にイギリスに亡命した。その後、すでに有名な神経科医であったグットマンは英国当局から戦争で負傷した兵士のための病院、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長になることを要請される。

彼はそれに同意した、下肢対麻痺の治療のための自身の理論の追求を許可してほしいという条件付きで。同病院での第二次世界大戦における戦闘で障害を持つことになった傷痍軍人たちの治療を通じて、グットマンはその身体的・精神的なリハビリテーションにスポーツが最適であると考えた。そして1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、入院患者である男性14人と女性2人を対象としたアーチェリー競技会が行われた。後にストーク・マンデビル競技大会と呼ばれるようになったそれこそがパラリンピックの起源とされている。

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だがそれから数十年間にわたってこの二つのイベントは別々の場所で、時には別々の大陸で開催された。今でこそ2つで1つのセットのスポーツイベントとなっているが、この障害のあるアスリートたちのイベントは注目され大量の金を生んだオリンピックと違い陰に隠れ続けていた。

そんな状況が変わったのが1988年だ、今回の冬季オリンピック/パラリンピックの地である韓国で再びオリンピックと同一地開催されるようになり正式名称も「パラリンピック」となった。このソウルオリンピックで2つの競技大会は永続的なパートナーシップを構築し、パラリンピックは単なる障害を持ったアスリートによる運動競技でなく、社会現象として成長することができたのだ。



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その後長年に渡って、障害を持ったアスリートたちは数々の並外れたパフォーマンスを見せ世界の注目を集めた。

南アフリカ共和国出身の両足義足のアスリートであるオスカー・ピストリウスはパラリンピックで多くのメダルを獲得したのちにオリンピックへ挑戦、2012のロンドンオリンピックで健常者と共に競い合い世界を驚かせた。

そして2年前のリオオリンピックではアメリカの盲目の短距離走者デイビット・ブラウンが100m視覚障害で世界で初めてとなる11秒の壁を破った。



だがそれらの象徴的な瞬間がもたらした影響はまだまだ小さいと、パラリンピックを研究するイギリスのコベントリー大学の研究員であるイアン・ブリテン(Ian Brittain)は指摘する。彼は障害者に対する人々の態度を変えるという使命をパラリンピックはまだ十分に果たしていないと考えている。

しかしパラリンピックがそれを実現するまれな機会でありをまたとないチャンスを提供している事も事実だ。

「パラリンピックに匹敵するものはありません。障害、平等、多様性の受け入れというより広い問題を議論するためのプラットフォームとして非常に重要で必要なイベントであることは確かです。」

「米国には5700万人もの人々が、そして世界中の何十億人もの人々が障害を抱えて生活をしています。」(※アメリカ合衆国国勢調査局が2012年に公開した報告書より。アメリカ人の5人に1人が精神的なものや認知症などを含んだ "広義の障害" を抱えているというもの。 ソース:アメリカ合衆国国勢調査局HP)

パラリンピックはそのような障害を抱えている人々の生活に焦点を当てるまたとない機会を提供するとともに、ゲームの純粋な興奮を人々にもたらすプラットフォームでもあります。ですがアメリカはその機会を失っています。

"アメリカのスポンサーが望むものは美しさ、身体的完全性、さらにはセックスアピールです"



そして識者によればアメリカがパラリンピックを活かしきれていないのは、アメリカの民間部門の力が公共部門と比較して強すぎることが大きいと指摘する。

政府がスポーツに強く関与している国では障害者への便宜がより図られている。

アメリカ合衆国の国内オリンピック委員会であるアメリカオリンピック委員会はオリンピック、パラリンピック、パンアメリカン競技大会のアメリカ代表チームの結成、派遣、運営など担っていますが政府補助金を支給されていません。一部の選手はスポンサー契約などで資金的に潤沢な立場にありますが、大半の選手は同国オリンピック委員会からの手当、米国の地元企業からの支援や自ら従事する職業からの報酬などに頼っています。 ソース:CNN


また英国のBBCやノルウェーのノルウェー放送協会、日本の公共放送局として知られるNHKなど公的に所有されている、あるいは公的に支援されている放送局がある国では彼らの手によりパラリンピックが一般にかなり浸透している。パラリンピック選手がテレビに出る機会が多いということはより多くのファンを獲得する機会があるということでもある。



だがアメリカでは、PBSやNPRなどの公共放送があるものの商業放送業者が支配的な立場にある。そして問題は、オリンピックの歴史家であるデビッドクレイによれば、パラリンピックの競技は他のスポーツのように "収益を上げることができない" ということだ。

「アメリカのスポンサーが望むものは美しさ、身体的完全性、さらにはセックスアピールです。そして彼らは心身共にトップクラスの選手同士が必死に競い合う姿を見たいと思っています、なぜならそれこそがナショナリストの情熱を呼び起こすからです。」

アメリカのパラリンピックに対する関心の欠如は、そこで活躍するアスリートたちを長い間支持してきた人々の欲求不満の源でもあった。

国際パラリンピック委員会の会長であったフィリップ・クレイヴン氏は米NBCのぞんざいな報道を厳しく批判したことがある、2012年のパラリンピックではNBCは5時間30分程度しかそれをカバーしなかったのだ、ちなみにイギリスの公共テレビ局『チャンネル4』では150時間を超えていた。

北米はいつも、すべてにおいて世界をリードしていると思っている人がいますがこの件に関しては全く逆です。」と彼はきつく指摘した。「いい加減他の国に追いつくべきです。」

"人間の身体をもっと自然な目で見る、人間の身体のありのままを受け入れる文化を持つ国々でパラリンピックがより一般的であるのは偶然ではない"



また放送局やスポンサー、その他の利益追求者の姿勢だけがアメリカの視聴者からパラリンピックを遠ざける要因ではない。

英語と生命倫理学の教授で障害研究を専門とするジョージア州エモリー大学のローズマリー・ガーランド・トムソン教授は、アメリカ人はそもそもパラリンピックの中心にある障害を持った人々に強い不快感を覚えていると指摘する、つまりは身体の欠如や手足の欠如などだ。


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その不快感はもちろんアメリカの文化に固有のものではない。しかしガーランド・トムソン教授は、身体についてのアメリカの「潔癖さ」がそれが増幅させ深刻化していると言う。

「私たちアメリカ人は裸体に、身体的機能や特徴にある種極端に潔癖でお堅い」と彼女は言う。

米国ではセクシーな姿の男性や女性が写った、例えばカルバンクラインの広告などが溢れているかもしれないが、人々の多くが公園での授乳やサウナで他人のたるんだ体を見ることに強い不快感を覚える。

我々アメリカ人は、ガーランド・トムソン教授が呼ぶ「身体の現実」、あるいは「生身の真実」に不愉快を覚えるのだ。つまりは理想化され偶像化された「正常な身体」に対する凝り固まった認識が障害を持った人々への不愉快を増幅させているのだ

"理想化された肉体ばかりで覆われた社会に住んでいる私たちの多くは所謂一般的な肉体に、あるいはふわふわした腹、「奇妙な」乳首、毛むくじゃらな背中に嫌悪感を抱いてしまっている。"

2017年4月の記事:『 なぜ世界は日本にあるような共同浴場文化を取り戻すべきなのか。(海外の反応)
より


人間の身体をもっと自然な目で見る、人間の身体のありのままを受け入れる文化を持つ国々でパラリンピックがより一般的であるのは偶然ではない、と彼女は言う。



"東京で取材した人のほとんどがパラリンピックは今後の社会変化に備えての準備となると答えていた"



もちろんパラリンピックを楽しむために露出狂になる必要はない。例えば日本は米国よりも人が肌を見せることに敏感だ。またその非常に礼儀正しい文化で見えにくくはなっているが、障害に対する否定的な見方も存在する。

だが2020年の東京オリンピックとパラリンピックに向けて日本がどの様な準備をしているのかを見るために東京を訪れたとき、私はどれだけパラリンピックが注目されているかに感銘を受けた。

街中広告や地下鉄の広告はパラリンピックをオリンピックと同等に扱い、学校の子供たちは両方の大会のマスコットを選ぶ投票に参加していた。東京都知事の小池百合子氏と会ったとき、彼女は盲目の人々を意識した大会公式エンブレムの形状が識別できる凹凸が施されたピンバッジをスーツのジャケットの襟に付けていた。

彼女は通訳を通じて「私はパラリンピックによりフォーカスしています」と言っていた。


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パラリンピックが障害を持って生まれた人々への懸念に焦点を当てるものであるとするならば、それはアメリカの若さや健全性に執着した文化からないがしろにされている高齢者への懸念をも強調する。

高齢者に対する意識は日本では米国よりずっと高い。日本では毎年9月に「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨とした "敬老の日" という日を国が主導して祝っている。

日本はまた人口統計的にも厳しい現実に直面している。寿命が伸び続ける一方で出生率が低下する日本は急速に高齢化しているのだ。そして最も重要な課題の一つは高齢化する人口に、広義での障害を持つ人口の増加にどう対応するかだ

東京で取材した人のほとんどがパラリンピックは今後の社会変化に備えての準備となると答えていた。東京の地下鉄の経営者たちは2020年のオリンピックとパラリンピックに向けてすべての駅を改装するために急いでいると答えていたし、 サイボーグ義足や競技用義足などを開発するXiborgという会社の代表取締役はパラリンピックが高齢者や障害者のための人工装具に注目を集めることを期待していると語っていた。

アメリカにおいても他の先進国同様に高齢化は他人事ではない。だがパラリンピックが高齢化の問題に対する意識を高めるとしても、障害を持つ人々への意識を高めるとしても、アメリカ人には日本人とは別の方法でアピールする必要があるだろう。



" 障害を持っていながらも、まるで "身体的に健全な" 人のように振舞える人をもてはやす傾向が強まっている。だがそれこそがアメリカの観客を引き付けるのかもしれない "





両足の膝から下を失ったパラリンピックのスノーボード選手であるエイミー・パーディが体の線にぴったり合ったセクシーな衣装でスタジアムの中央ステージに立っている。そして音楽が始まると身体をのけぞらせた体勢からすっと姿勢を正し艶めかしい踊りを始めた。

これは2016年に行われたリオパラリンピックの開会式の映像だ。この4分30秒の間、アメリカの代表選手は群衆に熱烈なサンバ風のダンスを披露する、しかも巨大なロボットアームとパートナーを組んでだ。



このパフォーマンスはパラリンピックの重要な、そしてある意味では不快な "転換" を象徴している。それは障害を持っていながらも、まるで "身体的に健全な" 人のように振舞える人をもてはやす傾向が強まっているということだ。

「パラリンピックはその動きにおいても支持者の数においてもオリンピックに近づきつつあります、オリンピックのモデルに追従する形で。」とパラリンピックを研究するコベントリー大学のブリテンは語る。

しかしそうすることで、パラリンピックは本来のルーツから切り離されることになるかもしれません。より "健常者に近い動きができる" パラリンピック選手ばかりに注目が集まることで、より重度の障害を持っている人が脇に追いやられる傾向にあります。それはパラリンピックの精神に反するものです。



しかしこの傾向は問題ではあるが、今どきでカッコよくセクシーであることに焦点を当てることはアメリカの観客を引き付けるための最大の希望となるかもしれない。

またパラリンピック委員会はアメリカ人が持つ強い願望にもっと訴えかけるよう努力してもいいかもしれない。我々アメリカ人は、例えば負け犬が逆境に打ち勝つ展開や、勝ち目のないと言われてきた人々が強者を打ち負かす物語を愛している。パラリンピックはまさにうってつけだ。

さらにより愛国心に訴えかけるよう努力するのもありだろう。今回の平壌パラリンピックのアメリカの代表チームにはアメリカの鉱山で働き事故により盲目になった選手や軍での任務中に爆発物により手足を失った元兵士である選手たちがいるのだ。国のために任務に就き傷ついた兵士の物語はテレビ番組や映画、ニュースメディアなどで何度も扱われてきた。アメリカ人の彼らに対する敬意はとても強い。

パラリンピックが提供しているのは、何か意味あるものを手に入れる機会だ、たとえそれが数週間しか持続しないものであっても

盲目の人や手足を失った人たちの勝利を喜ぶことができれば、障害を持つすべてのアメリカ人の生活に対してより深い理解と関心を持てるようになるはずだ。

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