イギリスの大手一般新聞『ガーディアン』より

誰も住んでいない町:必死に生き延びようとする福島県のコミュニティ

- Fri 9 Mar 2018

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"原子力災害から7年、未だに5万人が自宅に帰ることができていない、だが彼らのいつか帰りたいという願いはまだ失われてはいない"



日本の東海岸にある大熊町、かつてこの町は10,500人が住むにぎやかなコミュニティを形成していた、しかし今はここに立ち並ぶ家々に人の住む気配はなくなっている。

町が無人なのは、ここが7年前に東日本大震災とそれが引き起こした巨大な津波により1号機から3号機までメルトダウンを起こした福島第一原子力発電所に最も近く、まだ除染が完了していないため避難命令がまだ続いているからだ。

だが大熊町は住民から完全に見捨てられたわけではない、この町は『The Old Man squad(ジ・オールドマン・スクワッド、老人チーム)』、またの名を『じじい部隊』によってパトロールされているのだ。

困難な状況においてもたくましさを見せるこの退職者のグループは、日々彼らの最愛の "かつての我が家" を見守っている。

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横山常光さん、現在65歳になる彼はピックアップトラックから数メートルの所に立ちながら、以前に彼らの町の通りに不審な人物がいるのを発見し彼の友人たちとどう反応したかを思い返していた。

「ある日、町の周りを歩いている不審な人がいました。それを発見した私たちはすぐさまその不審な人の元に車で駆け寄りこの人をトラックに乗せました。」

町役場で職員として働いていた温厚な物腰の彼はそう語る。

「疑わしい行為や不審な人がいることに気づいたら私たちは当局に通報します。」



横山さんは町の住宅所有者の自宅に対する泥棒や放火などの懸念を和らげるために5年前にこのチームを結成した6人の退職者の一人だ。

彼は自身も含めチームメンバーは若い世代よりも放射線被曝を心配していないと語る、「私たちは老い先が長いわけでもありませんから」とのことだ。


横山常光さん(65歳)を含む大隈町市役所の退職者たちはこの地域の住宅所有者に安心感を与えるために避難指示が出ている町をパトロールする「じじい部隊」を結成した。 Photograph: Daniel Hurst for the Guardian

彼らはほとんど毎日1時間から2時間ほど離れた現在住んでいる場所からこの大熊町まで移動しボランティアのパトロールを行っている。

当初は彼らの活動は町を不審な人物などから守ることに焦点を当てていたが、今では水路に溜まったゴミを拾い上げたり、倒れた木々を取り除いたり、野生のイノシシによる被害を調べたりするなど町を清潔できちんとした状態に保つことが主な活動になっているという。

「私たちは同じ世代に属していて年齢もほぼ同じ、ですから私たちはお互いをよく理解することができています。皆が同じ目標を、この町に対する希望を共有しているのです。」このように横山さんは絆が深まったと語った。

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帰宅への長い道のり

震災と原発事故から7年、町の通りはかつてほど静寂に包まれているわけではない。町の一部では元住民は定期的に自分たちの家の状態を確認することが許されているからだ、だがあくまでそれは一時的であり一晩滞在することはできない。

状況は少しづつだが変わっているように思える、しかし元住民はすでに他の場所で新しい人生を始めていることを考えれば、かつてのコミュニティを取り戻すことは長く困難なプロセスであることは明らかだ。

志賀秀陽さん、大熊町役場の復興事業課課長である彼でさえ状況が相対的に正常に戻ったとしても彼の親族の残りは今住んでいる場所に留まるだろうと予想している。


大熊町役場の復興事業課課長である志賀秀陽さん、だが彼以外の家族は全域避難指示が解除されても大熊町には戻るかわからないという。
Photograph: Daniel Hurst for the Guardian


さらには彼にとっては単に昔の家に戻るというわけにはいかない。彼の所有する土地は核廃棄物の中間保管施設となるように指定された土地の一部となっているのだ。

さらに彼は3人の子供、今は皆20代になっているが、そのうちの1人は津波が押し寄せた時に凄まじい力の水の力から逃げようとしたときに、近隣の人たちが文字通り『津波に飲み込まれる』瞬間を目撃し大きなトラウマを負ったという。

「このような辛い経験をしている人たちは大熊に戻ってこようとは思ってくれないと思います」と志賀さんは言う。

「子供たちは大熊にもう戻ることはないと言っていました... 妻も同様です。だから私は一人で大熊に帰ることになると思います、家族と離れ、妻と離れて。」

町は回復し始めているがその野心は控えめだ。現在大熊町には50世帯分の住宅が建設されている - その数字は大熊町に戻りたいかというアンケートの結果を反映している。

最終的には100棟の一戸建て住宅を建てることを計画しているという。だがこれは災害前の人口のほんの一部に過ぎない。また彼は帰郷を希望する人たちは高齢者である傾向があると付け加えた。



また福島県の他の地域、福島県浜通り北部にある浪江町でも、一度避難区域となった場所を軌道に戻すことがいかに難しいかの過酷な例を示している。日本当局は2017年3月31日に福島第一原子力発電所の事故以来出されていた全域避難指示を一部の地区を除いて解除した。だが現在のところ、21,000人ほどの人口を抱えていた浪江町には490人しか戻ってこなかった。

浪江町役場の職員である青田ヨウヘイさんは、15.5メートルの波に襲われた低地の港近くのエリアである請戸(うけど)を見下ろす、彼の家はその時に破壊された家の一つだった。


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未だの残る痛々しい記憶

「もちろんここからの景色を見ていると、かつてここで何が起こったのかを思い出します。」と地元の小学生が津波から免れることができた高台に立ちながら彼は言った。

しかし現在はその小学生が通っていた学校は無人になり、この地域の住宅のほとんども破壊された。

「浪江の請戸(うけど)地区には約1,900人が住んでいましたが、不幸にも182人が津波で亡くなりました。実際にはまだ30人の行方不明者が残っています、これら行方不明者の遺体も所持品も何も見つかっていない状態です。」

福島県では2012年5月には県内の避難者が164,865人に達していたが、それから多くの進展があり現在その数字は50,000を下回っている。しかし、人々は必ずしも急いで戻ろうとはしていないようだ。

浪江町から南相馬に避難した渡辺リエコさん(65歳)は、なぜ住民が帰ってこないかについて彼らにはそれぞれ理由があると語る。

彼女は住民や労働者に家庭的な料理を日替わり定食とお弁当の形で提供する『キッチン・グランマ』という食堂を運営するために南相馬から通勤している。リエコさんは浪江町の人々は今後の生活ついて慎重になっていると指摘する。

「ですがここに住んでいた人たちは頻繁に浪江の様子を見に来ます。そしてもし、友人や知人、あるいは隣人が帰ってきたとしたら、"ああ、これは戻るべき時が来たんだ、私たちにも何かできるかもしれない" と言ってくれるかもしれません。」

「私たちは毎日祈っています。私たちは毎日一生懸命に働いています。少しずつですが浪江に人が戻ってきています。この流れが維持されるように、もっと大きくなってくれるように頑張っています。」

彼女は断固とした態度で、そして笑顔でこう言った。「決してあきらめません。」

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“福島県浪江町で災害ボランティア(援人 2017年 0714便)” by Hajime NAKANO is licensed under CC BY 2.0