香港で発行されている日刊英字新聞『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』より

香港の歴史:戦時中に日本兵が空襲から逃れた洞窟 - 4年間の香港占領時代の最後の痕跡の一つを探索

Hong Kong history: the tunnels where Japanese hid from air raids in wartime – exploring one of the last vestiges of 4-year occupation - Thursday, 01 March, 2018


「ここが日本兵がライフルを保管していた場所です、洞窟から出る際に取り出しやすいよう出口近くのこの場所に置いておいたのでしょう。」

「洞窟内は狭いのでライフルは邪魔になりますから。それぞれの洞窟の入り口付近にこのようなライフルを置く窪みがあります。」



香港の香港島西南に位置するラマ島には戦時中の日本の洞窟が数多く存在する。オーストラリア生まれの歴史マニアであるロバート・ロッキーヤー(Robert Lockyer)はこれまでに20もの日本軍が作った洞窟を発見した。

我々サウスチャイナ・モーニング・ポストの取材班は彼の案内に従いラマ島に残る洞窟、島民の手によって掘られ後にその場所を外部に漏らされぬよう彼らを処刑したという凄惨な歴史が残る洞窟の探検に出発した。同行するのは最近カナダから香港に帰ってきた香港人Ming Chang、冒険が好きだという香港の歯科医Jasmine Yeung、そして最近香港に移り住んできたフィンランド人のAnitta Hiekkanenだ。



「このように壁には実際に彼らが掘った痕跡が残っていますね。」



洞窟の中は大きいところでは1.5mほど横幅があり立っても頭をぶつけないくらいの十分な高さがある。また洞窟の外は摂氏12度であるにも関わらず驚くほど蒸し暑い。真夏の洞窟内を想像すると吐き気を催させるほど気分が悪くなるが、日本兵は実際にそのような環境で過ごしていたのだ。



「最近ラマ島で森林火災が発生しました。この火災は森林の木の下に生えている草や低木をすべての焼き払い、結果としてこの洞窟を含むいくつかの未発見だった洞窟が再発見されました」

「戦時中は8週間ごとにこの洞窟に日本兵が駐留していました、この場所で食事をし、休息を取り、排せつをしたわけです。こうして実際に入ってみるとそれがどんな生活だったのか垣間見ることができます。」



海洋保全を目的としたNPOと香港の海岸線のゴミを清掃する組織でも働くロッキーヤー氏の地元の歴史に対する情熱はとどまるところを知らず、地元の住民や訪問者に無料のツアーを行うまでに至る。その活動は口コミで広がり現在は週に最大で4回も人々を案内する、多いときは1回のツアーに150人も参加するという。



「これらの前哨基地洞窟にはそれぞれ2名ほどの日本兵が駐留していました、一人が任務に従事し、その間にもう一人が休憩したり食事をしたり任務の準備をしたりしていたわけです。彼らは基本的に24時間ずっとこの洞窟内で過ごしていました、この出口付近まで来て別の洞窟からの旗によるシグナルを観測する任務以外では。」

「これらのトンネルは1944年から1945年の間に日本海軍によって島の上下間で通信するために使用されました。当時は同盟国が香港を取り戻そうとしており日本帝国軍はそれを恐れていました。」



日本帝国軍は1941年に香港を侵略、占領する。



日本帝国軍の残酷な占領政策は数多くの香港の人々の命を奪った。



「これから別の洞窟の中に入っていきます。しばらく壁に沿って進むとT字路にぶつかります、そこからさらにキッチンエリアまで下りていきます。」

次の洞窟はさらに大きく、また険しい場所にあるという。ロッキーヤー氏は地面に洞窟内の簡単な地図を書きながらキッチンや寝室、士官棟の場所を説明した。洞窟はジグザグなデザインになっており内部の光が外に漏れないようになっている。



これは軍事作戦を監督する指揮用の洞窟として機能した。



「この小さな引っ込んだ場所に小さなテーブルがあり食料もここに保管していました。そこに駐留していた日本兵はこの狭い場所で食事の準備をしていました。」



「このように機械でなく人の手でトンネルを掘って行きました。」

洞窟はしばしば単純な道具で奴隷の手により掘られた。1941年12月から1945年にかけての日本による香港占領時代の数少ない痕跡の一つであるこれらの洞窟は、ロッキーヤー氏によると空襲からの避難所や爆発物の保管場所までさまざまな目的を果たしたという。

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多くの戦争物語がそうであるように、ラマ島の洞窟も血と汗と涙で汚れている。地元の伝承によればラマ島の住民は日本兵から米と現金を支払われここに残る洞窟のいくつかを掘ったが、作業が完了するとその場所を秘密に保つために彼らは処刑されたという。(香港市民約1万人が約3年半の占領期間に処刑されたと推定されている。)

(※動画では"奴隷の手によって"と説明されていますが文章版では上記のように対価が支払われたと書かれていました。)



「硬い岩盤にぶつかったためここでトンネルは終わっています。」



日本の香港占領は1945年まで続いた。



日本軍はラマ島の洞窟から英国の艦船にカミカゼ攻撃をする準備をしていた。



「ここはラマ島にいくつかある"カミカゼトンネル(神風洞)"の一つです。日本帝国海軍は英国海軍が香港を解放するために港に入ったときに船首に爆弾を装着したボートで突撃することで対抗することを計画していました。」

ラマ島に複数確認されている神風洞はアクセスが容易なこともあり香港人の多くがその存在を知っている。洞窟は丘陵地帯にあり発破により作られ、自爆攻撃用の船を隠すために使われた。



「実際は英国の軍艦を攻撃することはできずこの入り江の底に沈みました。私たちの後ろにある岩のあたりで日本帝国海軍は降伏しました。」



第二次世界大戦末期に旧日本軍が特攻兵器「震洋」を格納していた場所でその正体は先端に最大300kgの爆弾を装着したベニア板製の小型モーターボート。動力は香港にあった古いバスのディーゼルエンジン。香港島に上陸しようとする連合国艦艇に特攻する予定だったが出撃することなく終戦を迎えた。写真は連合国に拿捕された「震洋」。(Imperial War Museumより引用)



「私がこのような活動を始めた最も大きな動機は私の3歳になる娘です。彼女は香港人です、彼女が自分の国や地域の歴史をしっかりと受け継げるように、また人々がコンクリートジャングルから抜け出し本物のジャングルに出て自分たちが生まれた場所の歴史を知る機会を与えたかったからです。」

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