アメリカ合衆国・ワシントンD.C.の新聞『ワシントン・ポスト』より

日本人が楽しむようにアメリカ人が桜を楽しむためにはワシントンD.C.は変わらなければならない

To compete with Japan’s cherry blossom bacchanal, D.C. needs to step up its game. Big time. - By Petula Dvorak - April 2 2018

日本の桜にあってアメリカの桜にないもの、ワシントンで愛される桜の季節に欠けているものは何か? それは靴下姿でプラスチック製のカップを持って私の前にやって来た。

"Kanpai!"
ビジネスマンは私の手から携帯電話をつかんでそれをビールのカップに置き換えてそう言った。

"Kanpai!"
桜の花の下に座っている靴下姿の友人たちが一斉に叫ぶ。

私は一口飲み、カップを彼に返そうとした、笑顔で感謝を告げてその場から去ろうと思っていた。だが彼は首を振り、頭を大きくのけぞらせながらそれを飲み干せと身ぶりで表現する。

だから私はそうした、彼がその姿を写真に撮る、周囲の誰もが私を応援していた。


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バーボンストリートをもっと俗っぽくした感じと言ったらいいだろうか、
(※アメリカでは屋外や公共の場での飲酒を禁止している州が大半ですがルイジアナ州はアルコール規制が比較的緩く、特にバーやレストランが軒を連ねる著名で歴史的な通りであるバーボンストリートは大っぴらにお酒を飲めることで有名)
アメリカと日本の桜の季節の違いを調べるために、水曜日の夕方に東京の上野公園を訪れた私の前にはワシントンで見られる光景とは全く違ったものが広がっていた。

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満開の桜の下は行楽を楽しむ人たちで埋め尽くされていた。段ボール箱から作られた長めの低い宴会用テーブルが置かれ、テイクアウト用の寿司などのごちそうとビールや日本酒の瓶が大量に並んでいる。

ネクタイ姿のサラリーマンの集団がそこにいた。ダークスーツを身にまとったサラリーウーマンが脱いだハイヒールはシートの脇に一列に並べられている。彼らが持つプラスチックカップにはなみなみと酒が注がれ一同は笑いながら乾杯を繰り返していた。

子供を連れた家族がそこにいた、古い友人との再会を喜んでいる人たちがそこにいた、小さな箱をテーブル代わりにして一つのお弁当を仲良く食べる恋人たちがそこにいた。

提灯の明かりで照らされた桜が天を覆うように、公園の小道の周りはそのような夜のパーティーを楽しむ人たちで覆われていた。



靴下姿の男とその友人たちは、桜の下でその一瞬一瞬を大いに楽しむ日本の何百万人もの人々の中の一部だ。

彼らは朝の散歩で、昼休みの散歩で、夜遅くのピクニックで、毎日、毎時、その小さな花びらが必死に枝にしがみついている瞬間を見て舞い上がっている。

花びらが落ち始めても彼らはこのイベントの閉幕を楽しむために空を見上げ続ける、桜の花が大量に空を舞う桜吹雪はまるでハローキティの世界だ。


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日本の桜自体はアメリカで見られるものと違いはない。もちろんその数は違う、桜は日本全国で爆発的に咲き誇る、その規模はアメリカ人の愛する桜の名所であるワシントンの タイダルベイスン 周辺やその近隣の公園を小さく見せるほどだ。

タイダルベイスンの桜の木々は1912年に東京都知事から寄贈されたものであり、アメリカ合衆国国立公園局はそれらを情熱的かつ完璧に扱ってきた。ジェファーソン記念館を背景に ふわふわとしたピンク色の花を大量に付けた桜が水面に向かって枝垂れる光景ほど心打つ光景はない。

そう、私たちもこの花を愛でる美意識を持っているのだ。

私は日本を訪れた際にこのタイダルベイスンの桜の写真を多くの日本人に見せた、自然とその土地とが調和し完璧にバランスのとれた風景を、西洋に咲く桜の光景を彼らは心から賞賛してくれた。

だがその日本の美しさをここアメリカで再現することができても、アメリカではこの花に対するリアクション、この花が与えるインパクトと魅力を受け取る側の人間の反応を再現することに苦労している。

D.C.では、正直に言って花見は『ToDoリスト』に入っているイベントのような扱いになっているように感じられる。私たちは花が咲いているのを見て、タイダルベイスンの入り江をぐるっと回る人々の流れに入り、写真を撮る。「チェック(☑)、やるべきことはやった」となりそこで終わる。「次にこの辺りに戻ってくるのは何か別のイベントがあった時だろう」となるのだ。


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だが日本では花見は本物の娯楽だ。それは我々で言うところの マルディグラ だ。我々は桜の花を見ることを “cherry-blossom viewing” や “bloom gazing” や "flower viewing" などと呼ぶが日本には “Hanami” という専用の言葉まである。日本中の人々が桜の咲く1週間あまりをどんちゃん騒ぎで過ごす、日本の花見とはそんな国家的なイベントなのだ。

私が京都に訪れた際には鮮やかな着物を着た女性が桜の遊歩道の中を闊歩していた、花が咲き乱れる木から木へ移り、微笑み、ポーズをとりながらセルフィーを撮る光景があちらこちらで見られた。花見の時期は毎日がプロム(アメリカの高校などで学年末に正装で行うダンス・パーティー)やウェディングが行われているかのようだ。

大阪から長野にかけて、人々は皆一様に外に出て咲き誇る桜を前に膨大な数の写真を撮っていた。

花見の名所はまさに祭りの会場のようだ、おにぎりからタコの触手、焼き鳥などを売る露店がずらりと並ぶ。お祭りには付き物のゲームを提供する露店も並ぶ。そしてその店のすべてがピンク色で装飾されていた。

東京郊外の地区公園では、数十人の家族が桜の木々の下でピクニックや日帰りのキャンプを楽しんでいた。学校が休みの日の昼間に子どもたちを連れた家族が山や海でアウトドア活動を楽しむように、テントや折り畳み椅子、毛布、おもちゃ、ボール、お弁当、スナック、ドリンクを用意して楽しんでいた。彼らは夕暮れまで滞在し、子供たちは家に帰ることを望まない。



横浜の元米軍施設のゴルフ場では緩やかに起伏している丘陵の中で桜が満開に咲き乱れ、そこは家族向けのフェスティバル会場となっていた。そこはピクニックをする場であり、ドッグランがあり、寄せ集めのチームによる野球などが行われていた。

集まった人々は「メリークリスマス」や「ハッピーニューイヤー」のような、「ハッピー花見」に相当する挨拶で喜びを共有していた。


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D.C.でも日本のように、本物の花見のように楽しもうという試みがなかったわけではない。私がまだレポーターだった時のある年、私はアメリカの桜を取材したことがある。

私はアジア系アメリカ人の家族(主に最近移民してきた人たち)が桜の木の下で酒に浸かったピクニックを試みようとしてアメリカ合衆国国立公園局に取り締まられる事件について書いた。残念ながらアメリカ合衆国国立公園局の管理下にある土地ではアルコールは許可されていなかった。

私はまた日が暮れた後に花を見るためにタイダルベイスンに現れた少数の人々について書いたこともある。

夜桜は花見においてとても大きな部分を占めている。日本の公園や歴史的建造物などのランドマークでは夕方から桜を照明で照らしたり、音楽に合わせたカラフルなライティングをして昼間とは違った桜を楽しむことができる。



ではD.C.の夜はどうか? 私が夜にタイダルベイスンを訪れた際に見つけたのは日中に来る時間がなかった少数の連邦政府の職員や人目を避けて逢引する恋人達などだけだった。本格的な夜の花見? ライト? ピクニック? 私が日本の東京で水曜日の夜に見た遊歩道の周りを埋め尽くす花見客?

そんなものはない。


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日本的な花見を楽しもうという試みもあるにはある。桜の開花にあわせてワシントンDCで開催される『さくら祭り』には大きなパレードがあり群衆が詰めかける。普段のD.C.とは違ったお祭り的な雰囲気が訪れる。だが日本の花見を知ってしまった私からすれば、もうちょっと頑張れるのではないかと思ってしまう。



桜の魅力の中核となるもの、桜の持つ魔法/魔力はその刹那的で儚い性質にある。それはスケジュール通りにならないものだ。完全に予測できないものだ。思い通りにならず、人間が制御することができないものだ。いつその花を咲かせるかは桜の木次第、しかもその時が来てもそのピークはあっという間に過ぎ去っていく。

私は日本人がそうするように、その自然の美しさと儚さに我々も思いを馳せることができると信じている。だが D.C.に住む我々には欠けているものがある。人並み以上の成功を収めようと仕事を必要以上に頑張ったり、忙しいスケジュールに追われたり、A型行動形式(よく遊び、よく働き、競争的でエネルギッシュなタイプの人間)だったりするこの地域の性質は、いつ来るかわからないセレンディピティ(素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること)を待ち続ける能力を我々から失わせている。



桜の美しさを、その短い命を懸命に燃やす様を、そしてすべてが無くなる哀愁を喜びをもって体験するために、 D.C. の人々よ、この時だけはそんなことを忘れてしまおう。平日の夜にタイダルベイスンに行こう。毛布を持ってきて遅くまで上を見上げよう。仕事の事をひとまず置いて、納期のことを頭から消してしまおう。

そして靴を脱いで靴下で歩いてみて欲しい。見知らぬ人に挨拶をしてほしい。花だけ見るのは止めよう。それがHanamiだ。

海外の反応

washingtonpost.comのコメント欄より: ソース


xyzzy9 アメリカ人が日本人並みに桜を楽しめないのはビールもなければ日本酒もないからだろ、ここにあるのは銃だけさ。

sahmgr 日本のようにそこら中に桜の木があればアメリカでも同じようになっていたはず。

ワシントンの人々はわざわざ タイダルベイスンまで行かにゃならんし週末くらいじゃないと行けないから物凄く混む。日本ではちょっとした時間で楽しむことができる、それが平日だろうが週末だろうが、夕方だろうが朝だろうが、桜をサクッと簡単に楽しむことができる。

日本では娯楽でもここじゃ拷問なのだ。

alien1 駐車場の数が限られているから タイダルベイスン の周りは車の海になる。しかもバスの停留所や地下鉄の駅も近くにはない。さらにめちゃくちゃ混むのにトイレは少ないし、ピクニックをしようと荷物を担いでなんとか辿り着いたと思ってもピクニック用のベンチや施設はほとんどない。一番の問題はインフラだよ。

sps1 90年代の頃からタイダルベイスンで桜の時期にピクニックをしてきたんだけど3年くらい前から行かなくなった。昔はそんなに混んでなかったんだけどそのころから急激に混み始めたんだよねぇ。

人が多すぎて肘鉄喰らうし人波にもまれることに嫌気がさした。それと人々のマナーの悪さにうんざりしてしまった... 大人たちは繊細な木に登って写真を撮り、人々は記念のために花をむしった。

日本に行ったことがある私の友人は、日本でもワシントン同様に混雑しているけど人々の姿勢が全然違ったと言っていた。日本とここの違いは桜の木々とその花に対する畏敬の念だと感じたんだって。

commentarista ワシントンのNFLフットボールのチームの名前をワシントン・チェリーブロッサムズとかに変えてみるか。もちっと注目されるべさ。

Raymond faulkner 私は桜の季節に日本に行ったことがある。人々は休暇を取って桜の名所や公園で酒を飲んだり音楽を演奏したりと楽しそうにやってた... 我々が日本人並みに桜の開花に狂喜乱舞できるようになるまでにはまだまだ長い道のりがある。

ellie59 日本には桜を楽しむ伝統が何百年も何百年も前から存在していた。桜を楽しむことが文化として完成されているのは驚くべきことではない。私には日本に住んでいた友人がいるんだが、彼は今はアメリカに戻ってきたので日本の花見を、その楽しさをものすご~~~く恋しく思ってるそうだ。

omegaman そりゃ1000年前から桜を楽しんでいた連中に敵うわけないって、こちとら桜が来てまだ100年も経ってねぇんだぞ。

From the other side 日本人の桜と花見にかける情熱は我々のスーパーボールにかける情熱と同じだ。彼らは日本酒やビールを飲み、カラオケを歌い、酔っ払って木の下で眠る。それは超大規模なウェディングが何日も続くようなものだ。

ちなみにアメリカでそれをするとたぶん花見客がお互いを射殺する事態になると思う。民主党支持者VS共和党支持者、全米ライフル協会VS高校生、警察VS黒人の銃撃戦が始まる。そして全ての責任を負わされた桜の木が燃されるのだ!

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“Cherry Blossoms 2014” by m01229 is licensed under CC BY 2.0