17世紀のオランダ人が描いた日本が変!

Conjuring 17th Century Japan



この時期の日本は徳川幕府の鎖国政策により孤立しており、その結果西洋の日本に関する情報は限られていた。

そのような状況だ、おそらく人々のこの謎に満ちた国についての知識を与える書物に対する欲求は非常に強かったはずだ。そして出版社はもちろん強い意欲を持っていたはずだ、日本に関する何かを、この際何でもいいから情報を詰めて出版しようと決断してしまってもおかしくないほどに。


マツヤ(ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの化身 )と思われるイメージ



そして17世紀後半の西洋の日本に関する知識の欠如を補った最も重要な本の1つが、オランダの牧師、宣教師、教会歴史家であるアルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)が書いたこの本だ。

彼はアムステルダムの出版社ヤコブ・ヴァン・ミューズ(Jacob van Meur)と協力して1669年に「東インド会社遣日使節紀行(Denckwürdige Gesandtschafften der Ost-Indischen Geselschaft in den Vereingten Niederländern an unterschiedliche Keyser von Japan)」を制作した。これはドイツ語のタイトルであり、ここで紹介しているイメージは1670年の第2版からのものだ。

本書は非常に人気があり、すぐさまイギリス スコットランドの翻訳者ジョン・オギルビーが「Atlas Japanensis」という翻訳し英名を付けた海賊版を出版するほどだった。この本は東インド会社の大使館の業務から、日本の皇帝、領土、宗教、法律、習慣、巨大な富、豊かな文化、土壌の性質、動植物、丘や川などの地形、そして当時の日本人の性格など極めてよく書かれた一冊であり、初版から2年で少なくとも5ヶ国語に翻訳された。

モンタヌスは長崎港の出島、外国人が唯一下船し商いをし生活できた場所でオランダの東インド会社(VOC)が運営していた島に滞在中にこの本を書いたという。(wikipediaによるとモンタヌス自身は一度も来日していないとも)
オランダ東インド会社の使節団が将軍のいる江戸へ年次の表敬訪問した行程は1640年代に文書化されておりモンタヌスの主要な資料になった。さらに彼はポルトガル人の伝道記録、本を執筆するのに都合のよい様々なイエズス会の報告書や手紙や本を手に入れた。

明らかにおかしな絵(オランウータン? ヒンズー教徒の神?!)が複数存在し、この本が大部分が空想的な、非現実的なものだったことを示唆している。また文章の中にも明らかに異様な描写があるが、このモンタヌスの作品は1800年代に鎖国が解かれるまで西洋で日本文化の信頼の置ける報告として受け入れられていた。

この本をモンタヌスと共に出版したヤコブ・ヴァン・ミューズは 中国研究の第一人者アタナシウス・キルヒャーが1667年に書いたChina illustrataからいくつかのイメージを盗用、または脚色しているとみられる。できるだけ多くの珍しい、または奇妙な銅版画を含めることで利益を最大化させようとしたのは間違いないだろう。

だが全てがそうではなく、ある程度信頼性の高そうなイメージも存在しておりこの「東インド会社遣日使節紀行」が強い影響力を持ち広く受け入れられたという事実を説明していると言える。

以下「東インド会社遣日使節紀行」の挿絵。(20枚ほど省いています。また画像はほぼページ順です。明らかに日本らしい画像の間に日本じゃなさそうな画像が所々挟まっています。)


平戸のオランダ商館


キリシタンの迫害


日本の埋葬


日本人の婚礼


明暦の大火

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海外の反応

bibliodyssey, imgur, froginawellのコメント欄より: ソース , ソース , ソース

Karla 17世紀の日本と聞いて期待して見てみたが...
こんなの予想していなかったぜ... 君の指摘した事はもっともだと思うよ。

Jonathan Dresner 一部の画像はかなり正確だ、特に武家のイメージはかなりいい。 長崎港の貿易拠点に実際にいたオランダの商人や学者の観察に基づいているのだろう。

そして画像のいくつかはインドや中国がモデルだろう。まぁ宗教的な彫像はこれらの文化の間でそれなりに共有されているしそこまでひどいという訳ではないのかもしれない。 中には明らかにおかしいのもあるが19世紀以前のことだからお約束だね。

ただ人力車は発明されるのはこの時代より200年も後のはずだ。日本人は荷物を運ぶために車輪付きカートを使用しなかった。それまで日本人は主に徒歩か船で旅をしていた。サムライは時には馬に乗ったが他のエリート、武士、貴族、村長、裕福な人は(人を運ぶための)かごに乗っていたはず。物資の輸送は主に船と人によって行われていた。

peacay そうなん? 二輪馬車が発明されていなかったとは知らなんだ。中国にはあったんだろうか?

Charles Eicher 何言ってんの。2分ほど検索しただけで日本が車輪付きのカートを使用していた証拠の昔の画が1000枚は見つかったぞ。

Jonathan Dresner 私は皇室の例外を無視していたけどそれは本当だよ。 車輪車は平安時代から宮廷貴族のみの利用に制限されていた。 徳川時代には牛を使った車(人力ではない)を使う権利を持っていた人が一部いたが人口の残りの部分はそうしなかったし、物資もそのように運ばれなかった。数が限られていたはずだからオランダ人が彼らを見たことはないと思う。

Charles Eicher でも人間が二輪車を引いた姿を描いた初期のエマキモノを見たことがあるぞ。はっきりと思い出せる。

Aki 17世紀には車借と呼ばれる車輪付きのカートがあったはずだよ。馬を使った引いたものは馬借と呼ばれていた。1426年に船乗りが蜂起した正長の土一揆は日本で出版されている歴史の教科書のほとんどで扱われていてそこに車借と馬借が画かれている。

Galderich 素晴らしい。とても興味深いものだった。

ian この本はだいぶイっちゃってるな。 いやぁよくこんな記事を書いてくれたよ、ありがとう。

trippingthelightfantastic マツヤの下にある画像は孔子と仏陀か?

zapsdiputs いろんな意味でヤバいものを見てしまった。

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