reddit.comのスレッドより

私の曾祖父は1938年の日本統治時代の台湾で日本人警察官を刺した。私の祖父から聞いたその話を語るよ。

My great-grandfather stabbed a Japanese policeman in 1938 colonial Taiwan. My grandfather retells the story. - 2018/1/12

やぁみんな、私の祖父は私に彼の過去の出来事をたくさん話してくれたんだけど、その中でも特に興味深い話があったんでここで共有しようと思う。それは私の曾祖父がかなりの苦境に陥り、そこから如何に立ち直ったかという話だ。


ちなみにこれが私の祖父が20歳の時の写真


今は86歳。ではさっそく祖父の話を始めよう...

祖父:
「植民地時代の台湾で、統治者である日本はそのほとんどの場合において公正な統治者だった、もちろん中には権力を濫用した人もいたが、基本的にはそうだったと言えるだろう。その事件が起きた時、私はまだ3年生の子供だった。ある日私の父は(投稿主の曽祖父)は日本人の警察官と言い争いになりエスカレート、物理的な取っ組み合いにまで発展してしまった。

私の母と兄がそれを止めようとしたとき、父は警官の背中に鍬(くわ)を刺してしまっていた。それは深刻な傷だった。両親と私の兄はその場から逃げ出し竹林に隠れた。

すぐさま地元の警察署は私の両親を探すために20人の警官を私の家に派遣したが、そこにはまだ子供だった私と私の弟としかいなかった。
警察は私たちを放っておくことに決め、私たちの両親が竹林に隠れているというタレコミを受け取ったようで彼らを探しに去っていった。その時点で両親はすでに別の林に逃げていた。その後も警察は両親を追い別の森林に、両親もまた警察から逃れるために別の森林へ逃げていった。警察はあと一歩のところで捕まえきれず、最終的に両親と兄は別の町にある母の家に逃げ延びた。

私と弟は子供だけで家に残され、私は弟の世話をしながら両親からの連絡を待ち続けた。ようやく隠れていた両親と連絡が取れたのは約1ヶ月後だった、両親は家族の財産を地元の日本政府関係者や日本人の権力者と懇意の仲にある台湾の有力者に賄賂として渡すことを決めたのだ。

賄賂は効果があったがその結果、私たちは家族の財産を失った。 当時私の家族は台湾全土で最も古く、また最も豊かな家族の一つだったがその時点で私たちに残ったのは名前と家、そして農地だけだった。



警察は両親と兄を一週間だけ拘留し開放、"傷害"を"事故"として処理した。家財のほとんどを失った両親は大家族を食べさせるために、残された農地で農産物を育て、売って、懸命に働いた。もちろん私も家族を助けるために働いた。

当時 私はまだ十代だったが、毎日太陽が昇る前に自転車で何マイルも離れたMadou(麻豆)と呼ばれる別の町まで行き、地元よりもかなり安く野菜を売るその町で野菜を買い、自分の街であるJiali(佳里)の朝市に間に合うよう戻った。

私の商品は他の路商よりも安く売れたのでいつも完売だった。そしてその後、私は学校に向かっていった。それが富裕層から貧困層に堕ちた私の家族の日常だった。



戦後の日本が去った後にやってきた国民党による統治はそれまでよりもはるかに過酷あり、彼らは銀と金を国民党の作った通貨と交換することを強制、市場全体がインフレし誰しもが貧しくなった、特に農民はそうだった。

日本語や台湾語を話すと反逆とみなされ逮捕された、戻ってこなかった人も少なくない。何年もの間、日本の教育を受けた後でマンダリンチャイニーズ(北京官話、標準中国語)を学ぶのは難しかった。

私たちは中華民国陸軍に入隊しなければならず、私たちは恐怖の中でマンダリンを習得した。私はもはや日本語をほぼ覚えていない、基本的な会話、「Mango ga oishii!」といったものしか喋れなくなった。



追記:私の英語力が高いことを不思議に思っているコメントが散見されたので言っておくと、私は台湾系のカナダ人で私の家族は私が3歳のときにカナダに移住したんだ。 ちなみに私はまだ北京語と台湾語をネイティブ並みに話せるよ。それと興味があったので大学で日本語を勉強した。私の祖父はまだ台湾の台南のJiali(佳里)地区に住んでるよ。

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海外の反応

reddit.comのコメント欄より: ソース


reignofcarnage 私の知り得なかった時代の一幕を垣間見させてくれてありがとう!

TainanBoy(投稿主) どういたしまして! 私の家族の歴史を皆と共有したいと思ったんだ。

kalibie 私も台湾出身で祖父は日本が去ったときには子供だった。台湾人の日本に対する認識を韓国人と比較するとほんとおかしいよね。ほとんどの本省人(台湾の人口の大半、1500年代から中国大陸各地から台湾に移り住んだ人々およびその子孫の人々)は中国国民党が来た時、実際に日本統治時代の方が良かったと思っていた。

私の祖父も君の祖父と同じように、日本人による統治は厳しいものだったが少なくとも公平だったと言っていた。真夜中にドアを開けておいても大丈夫なくらい治安が良く、誰も犯罪を犯さず、下水道や発電所やダムなどのような今でもまだ使われているインフラを建設した。

祖父はいつも日本語を話せることを誇りに思っていた。 もちろん国が植民地化されるなんてことは受け入れがたいが、実際 経済崩壊と白色テロ/ 二・二八事件とそれに伴う虐殺を引き起こした中国国民党よりずっとマシだった。

(白色テロは1947年の二・ニ八事件から40年後に戒厳令が解除されるまでの期間のことで、蒋介石率いる国民党に対して反抗的な者は投獄、処刑された。1949年には僅か1週間で数万人の市民が殺されたと言われている。)

政府が正式に二・二八事件や白色テロのことを認め謝罪したのは私が生まれた1995年になってからだった。 まぁ何度も支配され、その中で好きな支配者がいる、みたいなことを言ってる時点でどうかと思うけど。

TainanBoy(投稿主) 私の祖父も日本統治時代のことを語るときは懐かしそうに、いとおしい思い出であるかのように語るよ、中国国民党時代と比べて。

Morose_Pundit 私の妻の家族の歴史も似たようなものだった。ただし、妻の父は君のところみたく短期間投獄されたわけでなく日本によって処刑されたが。

TainanBoy(投稿主) それはお気の毒に、哀悼の意を表します。

ReVaas 目からうろこの話しだったよ。これって具体的に何年くらいの話なんだ?

sharoncousins 日本による台湾統治は1895年から1945年の間、第二次世界大戦終結と共に植民地は手放された。

inohsinhsin 私も元台湾人のアメリカ人だ、8歳の時にアメリカに移った。私の祖父も君の祖父と同年代で学校では全て日本語で授業を受けていたらしい。私たちは家では台湾語を話すんだけど日本人の彼女を家に招いたら祖父が突然日本語を、それもまるでずっと日本語で話をしてきたかのように流暢な日本語で話しだしてビックリした思い出がある。大学で日本語を学び始めたばかりだったんでなおさら、祖父が自然に話す様にびっくりしたよ。

その後祖父から卒業写真を見せてもらったんだけど彼の教室は私が台湾にいたころの教室と似ていたけどそこにはライジングサンの旗と天皇の肖像画があった。校長先生は軍官の服を着てやたら立派な口ひげと剣を持ってた。

それと母から聞いた話だと、私の家は君の家と違って貧しい農家だったから生活は大変だったって言ってたよ。小さなリンゴを家族みんなで分け合うためにうす~くスライスしなければならなかった、なんとなくリンゴだとわかる程度の味しかしなかったって母は言ってた。

食べるものが本当になくて、一握りの米を盗もうものなら鞭打ちにあった。私の母やその兄弟は10歳くらいから家族を支えるために働いていたってさ。

TainanBoy(投稿主) 日本人の友人が何人もいるんだけど彼らの多くが台湾の田舎を訪れる度に日本語に堪能な高齢者に、その数に驚いてるね!

KirkTome 日系アメリカ人としてとても興味深い話だった。それと私も台湾人の友人の家に遊びに行ったら彼のおばあちゃんが私よりも日本語が上手くて驚いた。それが日本の植民地支配の結果なのだと思うとちょっと複雑だけど。

Cookdoo2 アメリカ生まれの台湾人として、これは素晴らしく興味深い話だった! 私は台湾に昔から住んでいた人たちの話を聞いたことがなかったから当時の社会について学べて本当に面白かったよ。私の祖父は元中国国民党、要は1945年以降に中国大陸各地から台湾に移り住んだ外省人なんで本省人側の話は新鮮だった。

TainanBoy(投稿主) 違う立場から見た歴史や人生って興味深いよね、やっぱり両サイドを知ることの大切さを痛感する。私たち本省人の多くは中国国民党の支配を嫌ってたんだ、多くの人が今も嫌ってる。でも外省人は割と国民党に忠実だった。

Cookdoo2 祖父は中国本土にいたころは歴史学の教授の教授だったんだけど台湾に移り住んでからは中国国民党の思想を段々と放棄していったって聞いたな。もう亡くなっちゃったからその当時の話は父から断片的にしか聞けなくなっちゃった。台湾には親族が残っているからその当時の話を聞いてみたくなったね。

TainanBoy(投稿主) そりゃすぐにでも実行したほうがいい! 生きているうちにしか聞けないんだから。

cjasonc 日本が去った後、当時の教師をしていた私の妻の曽祖父は一晩で消えてしまった。義母はその日のことを、警察が来て彼女の父親を連れ去った時のことを今でも話すよ。その後数年間、彼女の家族は国民党の裏切り者とみなされいじめを受けていたと。義母は未だにその魂に国民党に対する強い憎しみを宿している。

TainanBoy(投稿主) 白色テロ時代は酷いものだったからね。この手の話が大量に語り継がれてる。

ibelieveinmydog どの家族もそういった話を持っている。私の家族の場合はジャーナリストだった父の叔父がそうだった。

guitarhamster 私もアメリカに移住した台湾系アメリカ人だ。台湾に住んでいる私の祖父母はまだ日本語を話すことができて、彼らはいつも日本統治時代が中国国民党よりずっと良かったと言っている、日本人が台湾の近代化を助けとまで。

一方で別の祖父母は外省人なんでそっちの話も聞いてるんだけど、まぁいずれにしても、戦争や政治的な混乱が続いた20世紀初頭の中国または台湾で生きるのは大変だったのは間違いない。

MadCatAttack 台湾人が日本の占領時代を好意的に見ていることはとても興味深かった。中国本土の子孫として、日本の兵士は胎児が男か女かを賭け妊婦の腹を裂いたとかいったホラー話を聞いて育った私としては...

台湾では中国本土よりも武力衝突が少なかったからだろうか。

TainanBoy(投稿主) 台湾人は大日本帝国の一員だったから扱いが良かった、本土の人とは違ったのは間違いない。

b__q 私が理解している範囲だと、韓国と台湾は大日本帝国の一員であったため特別扱いを受けていたはず。

imavgguy 韓国には優遇措置はなかった。語り継がれていることは中国本土のホラー話に近い。

2BrothersInaVan 中国本土の人間として、台湾人が日本の文化を愛し、中国本土の代わりに日本を休暇の旅行先として選ぶ理由が理解できなかった。

私が台湾を訪れた時、台湾の人々の日本に対する悪感情の無さに本当に驚いた。私は「日本人が第二次世界大戦中に君たち中国人にしたこと知っているだろ? なのになぜ?」とか思った。でも国民党統治時代という比較対象があるからなんだと理解できた。

kramertoast 私と同年代の若い台湾人が家族の歴史やどのような経緯を経て今の時代があるのかに興味を持ってくれていることを嬉しく思う。 私は台湾系アメリカ人で家族の背景は君と非常に似ている。私の祖父母や先祖もJiali地区に住んでいた。私の祖母は日本の統治が終わった後、家計をやりくりするのにとても苦労したと私が小さいころによく語って聞かせてくれた。とにかく、似たような背景を持つ人に会うのはいつもクールだ。

chocaholic_ うちの曽祖父も、ヒオス島っていうトルコ本土の海岸から3マイル離れたギリシャの島だけど、20世紀初頭にトルコ人兵士を殺っちゃって逃げまわったって言ってたなぁ。なんか最終的にレジスタンスに加わったとか。

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