大学教授や研究者などアカデミック関係者のみが寄稿するニュースメディア『The Conversation』より

ベーブ・ルースと着物: いかにして野球外交が日米関係を強化したか

Babe Ruth in a kimono: How baseball diplomacy has fortified Japan-US relations - by アメリカ合衆国のコネチカット州ストアーズに位置する州立総合大学『コネチカット大学』の公共政策学の教授 Steven Wisensale - March 27, 2018

1995年6月30日、ソニー・プラザでロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄の活躍を観戦する東京の人々。 Shizuo Kambayashi/AP Photo

2001年2月9日(日本時間10日)、アメリカハワイ州のオアフ島沖でアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルが愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船だった えひめ丸 の真下から浮上し衝突、船を沈没させ9人の学生と教師が死亡する事件が起きた。それは仮に日本の潜水艦が北朝鮮の船の真下から浮上しその船を沈没させた場合、両国は戦争に陥った可能性があるほどの出来事だ。

しかしこの事件の場合、米国と日本の関係者は事態の深刻化を避ける手助けとなるお互いが親しみを持つ外交ツールに頼ることができた、そう、野球だ。犠牲者に敬意を払うため、両国は毎年行われる青少年野球大会 『愛媛ハワイ交流少年野球大会』 を四国とハワイで交互に開催する取り組みを始めた。



日本とアメリカ間の外交における野球の役割には長く豊かな歴史がある。アメリカの教育者ホラス・ウィルソンと日本の鉄道技師の 平岡ひろし が1870年代に日本人にこのスポーツを紹介しすぐに人気となった。やがてそれは歴史と文化が大きく異なるこの2つの国の人々を引き合わせていく。

日本とアメリカとの間で初めて親善試合が行なわれたのは1900年代の初頭、日本とアメリカの大学野球チームが互いに競い合ったのが始まりだ。 プロ野球チームによる親善試合はすぐそれに続いた。1905年から1934年の間に35以上の大学、セミプロ、プロチームが太平洋を渡った。第二次世界大戦がその文化交流を一時的に中断してしまったが、戦争が終わって以降は両国間の関係改善の役割を果たし、地政学的に敵国だった2つの国を忠実な同盟国にするのを助けたのだ。

私は フルブライト・プログラム (アメリカのアカデミック関係者向けの国際交換プログラム、および奨学金制度) の支援を受けた学者として日本で野球が日米外交関係で果たした役割を研究してきた。そしてそのユニークな歴史の中でキーとなる瞬間を6つ特定したのでそれをこれから紹介しよう。

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ベイブ・ルースは日米両国の人々の心をつかんだ



1934年、戦争の気配が漂い始めたころにベイブ・ルースとアメリカのチームメイトは18試合の日本ツアーを開始する。1934年11月2日には50万もの日本の人々が銀座の街でアメリカの野球選手たちを歓迎した。ベイブはそのツアーの間に13本のホームランを打ち、アメリカと日本の国旗を振り、日本の子供たちと戯れ、さらに日本の伝統的な着物を着て日本の人々の心をつかんだ。


photo via wonderfulrife.blogspot.jp
日本の仙台にあるベーブ・ルースの像。 The Nihon Sun

今日、ベイブ・ルースの像は仙台動物園に立っている。それはヤンキースの偉大なスラッガーが日本で初めてホームランを打ったまさにその場所に立っている。



ベイブらのチームが米国に帰国したとき、フィラデルフィア・アスレチックス(メジャーリーグのオークランド・アスレチックスの旧名称)のオーナーでありマネージャーだったコニー・マックは両国が戦争に向かうことは決してないと宣言した。

「日本全体に強い反米感情が広まっていた。だがベイブ・ルースがホームランを打つとともに、すべての悪感情や戦争の気配は空のかなたに消えてしまった。」

マックは記者団に対しそう語ったが、残念ながらルースの訪問から7年後、彼は間違っていたことが判明する。

だが彼が「この旅はこれまでの外交的な交流が成し遂げたすべてのことよりも日本人とアメリカ人の間の理解を深めてくれた。」と言ったように、一時的かもしれないがこれらの交流が日米間の友好関係を築いたのも確かだ。

レフティ・オドールと戦後日本

第二次世界大戦の終結から4年後の1949年、アメリカ軍は依然として日本を占領しており連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは戦後の日本の占領政策と再建を監視する役割を担っていた。

彼は繰り返し起こる食糧不足とホームレス問題、そして文化的に鈍感な占領軍に対する不満の高まりから反米感情を懸念し、共産主義に影響された反乱の可能性を恐れていた。

士官学校で野球経験があり、両国における野球の文化的重要性を理解していたマッカーサーは高まる緊張を緩和する方法として、マイナーリーグのサンフランシスコ・シールズの監督になった元メジャーリーグのスターである レフティ・オドール を召喚する。



日本人にとって彼は見知らぬ外国人ではなかった。彼はメジャーリーグ選抜チームの一員として1931年と1934年に2回訪日しており、1934年にはベイブ・ルースに日本に行くよう説得し、1936年には日本の本格的な職業野球、つまりはプロリーグの旗揚げの手助けまでした人物だった。

オドール率いるサンフランシスコ・シールズは訪日すると当時の日本のプロ野球のスタープレーヤーで結成された全日本チームとの対戦巡業を行う、それはベイブ・ルースのツアー以来日本で初めてプレーするアメリカ人野球チームとなり、14,000人の戦争孤児を含む50万人の人々が観戦した。日本の昭和天皇ヒロヒトも彼とシールズに感謝するためにオドールに謁見するほど日本国民にとって意味のあるものだったという。

マッカーサーは後に、オドールのツアーは彼が見た中で最も素晴らしい外交の一例だと口にした。今日ではオドールは戦後の荒廃した日本に野球という手法で新たな光を差し込ませ、日米交流を図ったという点で大きく評価され日本の野球殿堂入りを果たしている。

ウォーリー与那嶺、日本の野球界にアメリカ人が入る

photo via hawaiisportshalloffame.com
1950年代初頭にはいくつかの日本のチームオーナーがアメリカの野球選手を獲得する可能性を模索し始める、アメリカの優秀な選手を入れることでチーム全体のプレーの質が向上することを期待して。

だが当時はまだ戦争からのアメリカに対する敵対感が残っており、ファンが「純粋なアメリカ人」の選手たちを素直に応援してくれるかといった懸念がオーナーたちにはあった。そして東京読売ジャイアンツのオーナーである 正力松太郎 は親友のレフティ・オドールに助言を求めることになる。

米国務省と協議した後、オドールはウォーリー与那嶺を推薦した。彼はアメリカのハワイ生まれの日系2世のアメリカ人だった。彼は日本プロ野球では戦後初の外国人選手となるのだが日本語が話せず、最初は人種差別的な嫌がらせも受けたという。

だが彼は来日初打席から活躍しオールスターゲームにも出場、以後8年連続で選出された。それは第二次世界大戦後に初めて日本の野球界にアメリカ人選手が溶け込んだ出来事であり、日本の野球を永遠に変える出来事でもあった。そして1951年から2017年の間に300以上のアメリカ人選手が日本の球団とサインした、その先駆けがウォーリー与那嶺だった。彼が日本に来た1951年は米国による日本占領を終結させる平和条約が締結された年でもある。


日本人初のメジャーリーガー、サンフランシスコ・ジャイアンツが選手を奪う事件と日米野球界の摩擦

photo via foundsf.org
1964年、南海ホークスの左利きのリリーフ投手である 村上雅則 は サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーリーグ1Aのフレズノに野球留学で派遣される。そしてこの時ジャイアンツはメジャーに昇格させたい者が出た場合は1万ドルの金銭トレードで契約できるという条項を入れたが南海側は昇格者が出るとは思っていなかった。

当初村上は6月に帰国する予定だったが南海は戦力が充実していたため帰還要請を出さず、一方でサンフランシスコ・ジャイアンツはペナントレースでの熱戦で疲弊した選手を補充する必要がありマイナーリーグから村上を昇格させることになる。

彼はその年に9試合に出場し1勝1セーブ防御率1.80の好成績を収め、短い期間ながらも有用と見たジャイアンツはシーズンが終わるころには村上の契約の権利は自分たちが所有していると主張した。

村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発、日本野球機構やメジャーリーグコミッショナーも巻き込む展開となる。最終的には村上をもう1年ジャイアンツに置いた後に帰国させるという妥協案に落ち着いたが、それ以降30年にわたり日本の選手はメジャーリーグに入ることができなくなる。

「トルネード」が日米間の経済における緊張を緩和する

1980年代に日本経済は過熱状態に入る。1990年になるころには日本は1人当たりのGNPで米国を抜き、日本の投資家はロックフェラーセンターやユニバーサルスタジオのようなアメリカ企業のアイコンを競うように買収し、多くのアメリカ人が彼らの成功に対して憤慨し始めた。

特に象徴的なのがアメリカの自動車製造業で働く労働者による日本の貿易政策に抗議するためのトヨタ車の破壊運動だ。

デトロイトでトヨタ車を破壊する労働者たちの様子を伝える当時のニュース映像

1995年、日本の球団との間で確執を抱えていた「トルネード投法」でしられる野茂英雄投手は野球協約の抜け穴を利用し26歳で任意で「引退」し、ロサンゼルス・ドジャースとフリーエージェント契約を結んだ。それは村上雅則以来31年ぶり、2人目の日本人メジャーリーガーだった。

だが彼の祖国の人々の多くが野茂を裏切り者と見ており、彼の父親は彼に話しかけるのを止めたとの噂まで存在した。しかし彼は瞬く間にスターになる、その身体を限界までひねり背中まで見せる独特のフォームで打者を困惑させ三振を重ね続けた「The Tornado」は1995年のオールスターゲームの先発投手に選ばれルーキー・オブ・ザ・イヤー賞まで受賞した。

米国での野茂の成功は米国だけでなく母国での彼に対する悪感情をも和らげ、ついには日本の野球ファンも彼を受け入れるようになる。日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇り彼の存在はアメリカ人の日本に対する見方も変えた。


ポスティングシステムの導入

野茂英雄投手の成功を機にその後も続々と日本人選手が彼に続けと言わんばかりにメジャーリーグに挑戦していくことになる、だがそれは日本のプロ野球のオーナーからすれば懸念事項だった、彼らからすれば「国の資産」を失うことでありしかも何も対価を受け取れないのだから当然の懸念だ。

そのため1999年に彼らはメジャーリーグ機構と協力してポスティングシステムという移籍制度を確立する。要するに日本からメジャーリーグへの移籍を希望する選手との交渉権を、メジャーの球団が日本の所属球団から入札で獲得する制度だ。最高額で落札した球団に独占交渉権が与えられるが選手自身は移籍球団を選ぶことはできない。

この妥協案は日本側を満足させたが、同時にそれはメジャーのチームが日本人選手を獲得する際によりえり好みをするように、えり抜きの選手を獲得する意欲を高めることとなった。

そのポスティングシステムを通じてメジャーのチームに加わった有名な選手は、鈴木一郎、松坂大輔、ダルビッシュ 有、田中将大、前田健太などが挙げられる。そして最も直近で話題となったのが大谷昌平だ。



ロサンジェルス・エンジェルスは大谷の元の所属チームである日本ハム・ファイターズに2,000万ドルの移籍金を、大谷自身には230万ドルの契約金を支払った。

大谷は投手だけでなく打者としての才能を持っていることからアメリカでは「日本のベーブ・ルース」、「第二のベーブ・ルース」などと呼ばれている。そして彼はエンジェルスで実際にその両方で活躍するつもりだという。

それはかつての偉大な選手から始まった野球外交を、日米友好の懸け橋としての野球を再確認する良い機会を与えてくれるのではないだろうか。

日本から来た大谷昌平にサインを求めるアメリカの野球ファン Chris Carlson/AP Photo

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