アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」より

私の家族の奴隷 Part3

My Family’s Slave - JUNE 2017

この記事は日本占領下のフィリピンで10代の少女を迎い入れ56年間奴隷として扱ったアメリカ人家族の話 のPart3です。最初から読むにはコチラをクリックしてください。


著者に関する情報

Alex Tizon University of Oregon 2015 - cropped (2).jpg
By University of Oregon, School of Journalism and Communication, CC BY-SA 4.0, Link


アレックス・ティゾン(Alex Tizon)

Tomas Alexander Asuncion Tizon(1959年10月30日 - 2017年3月23日)はフィリピン系アメリカ人作家でピューリッツァー賞を受賞したジャーナリスト。

シアトル・タイムズの記者として、彼と2人の同僚は連邦インディアン住宅局プログラムの不正に関する5部構成のシリーズを報道、1997年にピューリッツァー賞 国内報道部門を受賞した。

2003年から2008年にかけてロサンゼルスタイムズのシアトル局長を務め、その後もオレゴン大学ジャーナリズム・コミュニケーション校で教鞭をとるなどした。

彼の最後の作品は「私の家族の奴隷」と題されたもので、The Atlantic誌の編集スタッフが2017年6月号のカバーストーリーとして掲載することを決めた日にアレックス・ティゾンは亡くなった。この作品はその内容から大きな議論を呼び起こした

主な受賞歴:
アンソニー・J・ルーカス賞、2011
国際ジャーナリズムフェローシップ、2009年
ナイト・Iジェファーソン・フェローシップ、1998年
ピューリッツァー賞、1997年

英語版wikipediaより


"「私は父さんとはちがう。君はこの家では奴隷じゃないんだ。君は私たちに仕えるためにこの家に来たんじゃないんだよ。」 「オーケー。」彼女はそう言った。そして清掃に戻った。"



母が亡くなり、それまで母に尽くしていたローラを私は家に呼び寄せた。だが私は彼女の、時にイラっとしてしまう厄介な一面を忘れてしまっていたことに気づかされた。彼女は毎回のように私に風邪をひかないようセーターを着るように言ってきた、すでに私は40歳を超えているというのにだ。また彼女は私の父とイワンについて絶え間なく不平を言っていた、父は怠け者でイワンはヒルだと。

私は次第に彼女を無視する術を身につけるようになっていた。だが彼女の異様な倹約ぶりは無視しにくかった、彼女は何も捨てたがらないのだ。彼女は一時期ゴミ箱を漁って私たちが何かまだ役に立つものを捨てていないか確認していた。彼女はペーパータオルですら水洗いして何度も何度も再利用した、ボロボロに崩れてしまうまで。

キッチンはスーパーの袋、ヨーグルトの容器、ピクルスの瓶で溢れるようになり、我が家の一角は、他にどう表現しようもない、ゴミの貯蔵庫に変わった。

朝は大抵 家族全員が忙しくバナナやグラノーラ・バーぐらいしか食べないのだが彼女は毎日朝食を作った。彼女は毎日ベッドを整え、家族の洗濯物を洗い、家を掃除した。

「ローラ、君はもうそんなことをしなくていいんだよ。」

「ローラ、それは私たちがやるからいいんだ。」

「ローラ、それは娘たちの仕事だから。」

彼女は「オーケー」と答えるのだが、決して仕事を止めようとはしなかった。

最初は、無意識に優しく言っていたのだが、彼女がキッチンで立ったまま食事を済ませている姿を、私が部屋に入るとビクッと身をこわばらせ掃除を始めたりする姿を見ているうちに私は段々と苛立ちを覚え始めた。数ヶ月後のある日、私は彼女を呼び、椅子に座らせた。

「私は父さんとはちがう。君はこの家では奴隷じゃないんだ。」私はそう言うと彼女がこの家でこれまでにやってきた大量の "奴隷的な振舞い" の一つ一つを挙げていった。

そして彼女が驚いた様子でこちらを見ていることに気がついた。私は深呼吸をし、彼女の顔をそっと両手で包み、彼女の額にキスをした。

「ここはもう君の家でもあるんだ。」私は言った。「君は私たちに仕えるためにこの家に来たんじゃないんだよ。もっとリラックスしてくれていいんだ、わかった?」

「オーケー。」彼女はそう言った。そして清掃に戻った。



彼女は、そうする以外どうしていいのかわからなかったのだ。 私はリラックスすべきなのは自分の方なのだと気付いた。彼女が夕食を作っていたら、止める必要はない、そのまま任せればいい。彼女に感謝し、私たちはその後の皿洗いなどをすればいい。私は自分自身に絶えず言い聞かせなければならなかった、"ローラのしたいようにさせよう"

それからしばらく経ったある夜、私が家に帰るとローラがソファに座り、足を延ばし、テレビをつけた状態でワードパズルをしていた。彼女の脇にはカップに注がれた紅茶があった。私に気づくと彼女は私の方を見て、真っ白な入れ歯を覗かせながら、すこしきまり悪そうに微笑んでパズルに戻った。良い兆候だと私は思った。

そして彼女は家の裏庭でガーデニングを始めた。バラやチューリップ、そしてあらゆる種類のランをそこに植え、午後はその世話をして過ごした。彼女は近隣を散策するようになった。



ローラが家に来てから5年ほど経った、80歳近くになった彼女の関節は悪くなり歩く時は杖を使うようになっていた。かつてはファミリーレストランの下働きのようにキッチンに立ち続けていたが、今は心が赴いた時だけその腕をふるう職人肌のシェフのようになっていた。時折豪華な料理を作り、私たちがそれをガツガツと食べるのを見てにこやかな笑顔を見せながら喜んだ。

ローラの寝室のドアの前を通ると彼女がフィリピンの民謡のカセットを聴いているのをよく聞いた。同じテープを何度も、何度も繰り返し聞いていた。

私は彼女がほとんどすべてのお金を故郷の親族に送金していたことを知っていた。私と妻は彼女に週200ドル与えていた。ある午後、私は彼女が裏庭のデッキに座りながら、故郷の村の誰かが送ってきたスナップ写真をじっと眺めているのを見つけた。

「家に帰りたいと思うかい、ローラ?」

彼女は写真をひっくり返して、そこに書かれた文字を指でなぞり、そしてまたひっくり返して写真の一点をじっと見つめた。

「はい。」彼女はそう答えた。

彼女が83歳の誕生日を迎えた直後、私は彼女に家に帰るための飛行機代を渡した。私はその1ヶ月後に彼女を迎えに行くつもりだった、彼女が米国に戻りたいと思うならの話だが。

彼女ははっきりとは言わなかったが、その旅の目的は彼女が長年戻りたいと焦がれてきた故郷が、今でもまだ自分のあるべき場所のように感じられるかどうかを見極めることだった。

1か月後、彼女の故郷マヤントクの村を訪れる、彼女はその答えを見つけたようだった。



「何もかもが変わってしまっていました。」村の周りを二人で歩いていると彼女はそう私に語った。かつてそこにあった農場はなくなった、彼女の家もなくなった、彼女の両親も、彼女の兄弟のほとんども。まだ生きていた子供の頃の友人の何人かは見知らぬ人のようだったという。

「彼らを見ることができて嬉しいですが... でもやっぱり何もかもが様変わりしています。」

彼女は最後の時をここで過ごしたいと思っているが、まだ心の準備ができていないと言った。

「...君の庭に戻ろうか。」私は言った。

「ええ、家に帰りましょう。」



(左) 83歳の誕生日の後にフィリピンの故郷にしばらく滞在するため戻ったローラ。 (右)姉妹であるジュリアナと65年ぶりに再会するローラ。
image via theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family
ローラは私や私の兄弟たちが幼かった頃にそうしてくれたように、私の娘たちに献身的に尽くしてくれた。学校が終われば娘たちの話し相手になりお菓子を作ってくれた。

そして妻と私と違い(特に私)、彼女はあらゆる学校のイベントや発表会を、その一時一時を楽しんでいた。まだまだ楽しみたいとすら思っている様子だった。彼女はいつも一番前に座り、それらのプログラムを記念品として大切に保管した。

ローラは些細なことで喜んだ。家族の旅行に連れて行ったときはもちろん、家から少し丘を下ったファーマーズ・マーケットへ行った時も、まるで子供が遠足に行ったときのように目を輝かせながら「まぁ、なんて大きなズッキーニ!」と様々なものを見ては興奮し楽しんでいた。

彼女が毎朝最初にすることは家中のブラインドを開けることで、それぞれの窓でしばし立ち止まり、そこから見える風景を眺めていた。

そして彼女は自らの力で字を読めるようになった、それは学ぶ機会を与えられず晩年を迎えた彼女にとって一大事であり、私からしても驚くべきことだった。長年をかけて彼女は必死に手紙を読む方法を学んだようだ。

彼女は文字がたくさん並んだものから単語を見つけ出し丸で囲むパズルをよくやっていた。彼女の部屋にはそのワードパズルの小冊子が積まれていて何千という丸が鉛筆で描かれていた。彼女は毎日ニュースを見て、新聞と照らし合わせて少しずつそこに書かれた意味を理解したという。

そして彼女は毎日新聞を最初から最後まで読むようになった。かつて父は彼女を "バカ" だと言っていた。だが今の彼女を見ていると、仮に彼女が8歳の頃から田んぼ仕事をせず読み書きを覚えていたとしたらどんな人となっていたか、そんなことを考えてしまった。

"「ローラ、君はセックスをしたことがある?」私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、そう質問する自分の声を聞いた。"



82歳当時のローラ
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family
ローラは12年間私たちの家で暮らした。私はよく彼女自身のことを質問した、私が知っている彼女だけでなく、彼女自身の口から語られる言葉を聞き、その人生を知るために。彼女はそんな私の習慣を不思議がっていた。

私の質問に彼女はしばしば「なぜ?」とまず答えるのだった。なぜ自分の子供時代について知りたいのか、なぜ私の祖父と初めて出会った日のことを聞くのかと。

私は妹のリンに頼んでローラの人生における恋や愛の話を聞かせてもらうよう頼んだことがある、私が質問するよりも彼女の方が答えやすいだろうと思ったのだ。だがそんなお願い事をすると妹はケラケラと笑った、要するに、協力する気はないということだ。



ある日ローラと私がスーパーで買った食料品をしまっている時に、私はついこんな質問をしてしまった。

「ローラ、君は誰かとロマンチックな経験をしたことはあるかい?」

彼女は微笑んで、彼女が唯一持つ異性との話を私に語った。

彼女が15歳くらいの頃、近くの農場にペドロというハンサムな男の子がおり数ヶ月間彼らは一緒に米を収穫したという。そして一度、彼女はその作業に使っていたボロという農具を手から落としてしまったことがあり、彼はすぐにそれを拾い上げ手渡してくれた。

「私は彼が好きでした。」ローラはそう言った。

しばらく、お互い黙ったままで

「それから?」

「彼はその後すぐに立ち去ってしまいました。」

「それから?」

「それだけです。」



「ローラ、君はセックスをしたことがある?」私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、そう質問する自分の声を聞いた。

「いいえ。」彼女はそう答えた。



彼女は個人的な質問に慣れていなかった。彼女は私の質問に1つまたは2つの単語で答えることが多く、単純な物語でさえも引き出すには何十もの質問が必要だった。私はそれらの質問を通してそれまで知り得なかった彼女の一面を知った。

ローラは母の残酷な仕打ちにはらわたが煮えたぎる思いをしたが、それにもかかわらず母が亡くなったことを悲しく思っていたことを知った。彼女がまだ若かった頃、時々どうしようもなく寂しさを感じ泣くことしかできなかった日が何度もあったことを知った。

何年も異性と付き合うことを夢見ていたことを知った、私は彼女が夜に大きな枕で抱かれるように包まれた状態で寝ている光景を目撃したことがある。だが老後の今、私に語ってくれた話によると、母の夫たちと一緒に暮らすうちに独り身でいることはそれほど悪くないと思ったという。彼女はその二人、父とイワンについては全く懐旧の情に駆られないそうだ。



もしかしたら、彼女が私の家族に迎えられることなく故郷マヤントクで暮らしていたら、結婚し、彼女の兄妹のように家族を持っていたら、彼女の人生はより良いものになっていたかもしれない。だがもしかしたら、それはもっと悪いものになっていたかもしれない。ローラの2人の妹、フランシスカとゼプリャナは病気で亡くなり、兄弟であるクラウディオは殺されたと後に聞かされた。

そんな話をしているとローラは、今そんな "もし" の話をして何になるのかと言った。"Bahala na" が彼女の基本理念だった。

bahalaの本来の意味は「責任」。フィリピン人の性格を表現する時によく使われる「Bahala na(バハーラ ナ)」:何とかなるさは、「Bahala na ang Diyos(バハーラ ナ アン(グ) ジョス)」:神の責任である→神の思し召しのままに→運を天にまかせよう、というところから来ている。「Bahala」自体はそんないい加減な意味の表現ではないので注意が必要。

フィリピン語(タガログ語) Lesson 1より
http://www.admars.co.jp/tgs/lesson01.htm


ローラは彼女が送ってきた人生は、家族の別の形のようなものだったと語った。その家族には8人の子供がいた、私の母と、私とその4人の兄弟、そして今共に過ごす2人の私の娘だ。その8人の子供たちが、自分の人生に生きた価値を作ってくれたと、彼女はそう言った。

私たちの誰もが彼女の突然の死に準備ができていなかった。

"彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。"



ローラは夕食を作っている最中に台所で心臓発作を起こし、その時私は頼まれた使いに出ていた。家に戻り倒れている彼女を見つけた私はすぐさま病院に運んだ。数時間後の午後10時56分、病院で、何が起きているのか把握する前に彼女は去ってしまった。すぐに全ての子供たちと孫たちがその知らせを受け取ったが、どう受け止めていいかわからない様子だった。ローラは11月7日、12年前に母が亡くなった日と同じ日に永眠した。86歳だった。

私は今でも車輪付き担架で運ばれる彼女の姿を、その光景を鮮明に思い出せる。ローラの横に立った医師は この褐色の子供くらいの身長の女性がどんな人生を歩んできたか想像もつかないだろうと思ったのを覚えている。

彼女は私たち誰もが持つ利己的な野心を持たず、持てなかった。彼女の周りの人々のためにすべてをあきらめる様は、私たちに彼女に対する愛と絆と尊敬をもたらした。彼女は私の大家族の中で崇敬すべき神聖な人となっていた。



屋根裏部屋にしまわれた彼女の荷物を解く作業には数ヶ月かかった。そこで私は、彼女がいつか字を読むことができるようになった時のために保管しておいた1970年代の雑誌のレシピの切り抜きを見つけた。私の母の写真が詰まったアルバムを見つけた。 私の兄弟姉妹が小学校以降獲得した賞の記念品も見つけた、そのほとんどは私たち自身が捨たもので彼女はそれらを "救いあげて" くれていた。

そしてある日、そこに黄色く変色した新聞の切り抜きが、私がジャーナリストとして書いた記事が大切に保管されているのを見つけ、泣き崩れそうになった。彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。

竹と板でできた家々が並ぶ村の中央にある小さなコンクリートの家に私を乗せたトラックが止まる。村の周囲には田んぼと緑が無限に広がっているようだった。 私がトラックから出る前に人々が家の外に出てきた。運転手は座席をリクライニングにして昼寝を取りはじめた。私はトートバッグを肩に掛け、息を呑み、ドアを開けた。

「こちらです」

柔らかい声で、私はそのコンクリート製の家へ続く短い道に案内された。私の後を20人ほどの人が続く。若者もいたがその多くが老人だった。

家に入ると、私以外の人たちは壁に沿って並べられた椅子とベンチに座った。部屋の中央には何もなく私だけが立っていた。私はそのまま立ちながら私のホストを待った。それは小さな部屋で暗かった。人々は待ち望んだ様子で私を見ていた。



ローラの墓
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family
「ローラはどこですか?」

隣の部屋から声が聞こえ、次の瞬間には中年の女性が笑顔を浮かべこちらに向かってきた。ローラの姪、エビアだった。ここは彼女の家だった。彼女は私を抱きしめて、「ローラはどこですか?」と言った。

私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した。彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り、木製のベンチに向かって歩みそこに座った。彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。

「ローラはどこですか?」

と彼女は柔らかく言った。この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった。彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった。

彼女は膝の上に箱を置き、その額を箱の上に置くように折れ曲がった。彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた。

彼女の肩が震え始め、泣き叫び始める。それは私がかつて聴いたローラの嘆き悲しむ声と同様の悲痛な叫び声だった。



私はローラの遺灰をすぐに彼女の故郷に返さなかった、これほど彼女を気にしていた人がいたことを、このような悲しみの嵐が待ち受けていることを想像していなかったのだ。私がエビアを慰めようとする前に、台所から女性が歩み寄り彼女を抱きしめ共に泣き始めた。

そして部屋が嘆き声の轟音で包まれた。目の見えなくなった人、歯が抜け落ちた人、皆がその感情をむき出しにすることをはばからず泣いた。それは約10分続いた。気づけば私も涙を流していた。むせび泣く声が止み始め、再び静寂が部屋を包んだ。



エビアは鼻をすすりながら、食事の時間だと言った。誰もが列を成してキッチンに入る。誰もが目を腫らしていた。そして急に顔を明るくして、故人について語り合い、故人を偲ぶ準備を始めた。

私はベンチの上に置かれた空のトートバッグをチラリと見て、ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した。

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海外の反応

theatlantic.comのコメント欄より: ソース


chimichurri なんと類いまれな物語だろう。著者のアレックス・ティゾンもまた類いまれな記者だ、57歳という若さで亡くなったことが残念でならない。

Jason P chimichurr 映画にできそう、それはもう心打つ映画になるだろう。ハンカチ3枚は必要になる。 ローラもそうだが、認知的不協和(人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態)を抱える母に苦悩させられる著者もまた犠牲者と言えるかもしれない。

Adrián Sanabria 今日の映画界が手掛けるとなると...
爆発シーンやけばけばしさ演出だらけ、しかもローラは25歳のホットで見掛けだけは良いが頭の悪い女優、ジェニファー・ローレンスとかが演じるとかになりそう...

theVaudeVillainess このコメントを読むまで著者が亡くなったなんて知らなかった...
なんか余計に悲しくなってきた。

I'm With Her 慰めになるかわからないが、きっと著者は天国でローラと再会できているはず。まぁあの母親は地獄の業火で焼かれているだろうが。

Ilonka h 著者も地獄行きだろ。

Ilonka h とても才能あるライターだとは思うが自分の行動の言い訳をしているようにしか思えない。

Troll_in_Training 彼の母親がもっと道徳的な選択をしていたとしたら、この著者の書く物語がどんなに母の日にふさわしい物語になっていたか、想像してみてよ。

彼女は2人のひどい夫に苦しめられながらも立派に成長する子供たちを育て、医療に身を置き弱者を助けるためにその身をささげたという感動的な作品を読んでいたはず。

まぁ実際は、奴隷を抱えていたという事実によって永遠に汚染されているわけだが。

JH でもその医者になるための時間を作ってくれたのはローラなわけで、奴隷なしには成立しない話じゃん。

Troll_in_Training ローラに給料を払うなりまともな扱いをするなりできたはず、それがまともな人間のすること。やっぱこの母親はどうしようもないわ。

porkwad 残念ながらこれはフィリピンの文化であり、過去の時代から終わることなく受け継がれてきたことだ。この母親は彼女の父親がそうしたようにローラに対し思いやりを持たずに育った、彼女を完全に支配しいつでも彼女を利用するように。

彼女がそう育ったのは彼女の父親のせいであり、ひいてはそれを当然とするこの地域のせいでもある。ローラもまた無知ゆえに、常に怯え従うがゆえに、そしてある種 共依存していたがゆえに、この母親はその行動をより自己正当化することにつながった。もちろんローラのせいではない、彼女には選択の余地も、それが人のあるべき姿ではないと知ることもできなかったのだから。

veerkg_23 皆忘れがちだけどこの父親も相当な人物だぞ。

veerkg_23 著者らの本当の母親はローラだね。きっと著者の母親もどこかで負い目からそう感じていたんだろう。ローラは自らの子供を持つことができなかったけど彼女が育てた子供たちは彼女を母と思ったはず。でも母親らしくしてあげられなかった著者の母親も、子供を彼女から取り上げることになったローラもどちらもが罪悪感で悩まされていたんだろうと思うと...

RustedSteel 著者は彼のできる限りのことをしたと思う。彼もまた共犯者なのかもしれないけど、その状況というか罪は彼が作り上げたものではなく受け継いだものなわけで。

Troll_in_Training 彼はローラに給与に支払い、彼女長年望んでいた故郷へ連れて行った、そのまま残る選択肢も与えたじゃない。

Anna of Andalusia そうね。でも週に200ドルってどうなのよ? 彼と彼の家族のために長年奴隷にされた女性に支払う額として十分とは程遠いでしょ。

Dutch550 その額が精いっぱいだった可能性もあるけどね。

Ilonka h 40になるまでローラを助けようとせず帰国のチケットを用意したのも家に迎い入れてから5年も後、有名な賞を取り大学でも教鞭を振るう彼が金銭的に余裕がなかったってこともねぇだろう。

StayWoke だが彼の家族の、50年に及ぶローラへの扱いに対する贖罪を彼一人に負わせるのもまたどうかと思う。彼はローラを本当の家族として受け入れた。ローラはその後も彼に尽くしたが彼もまた彼女に尽くした。ローラはお金を受け取ってもそのほとんどを故郷に送金、そのお金を何か自分のために使うこともできただろうにそうしたのは彼女が多くを望まなかったのはもちろん、著者の家族との生活を良しとしたからでもあるんじゃないのか?

Laura Wynter それに家に迎い入れただけじゃなく何もしなくていいと言ったわけだしね。ただ悲しいかな、奴隷生活が染みついた彼女にはそれが難しかった。

Skip Truth かつてアメリカ南部には何百万という奴隷がいた。数十年前まではペルシャ湾岸では奴隷制が続いていた。このような凶悪な人間の振る舞いは皆が想像するよりはるかに身近だ。

マンハッタンの住居に "従業員" を連れてきたインドの国連関係者がついこの間いただろ? 実際は年間60ドルしか支払われないその "従業員" をアメリカの警察が解放したらインド政府は文句を言いインドの国民は奴隷を解放した米国の警察に怒りをあらわにしたわけだが。米国のメキシコ企業が就労ビザを手配し従業員にリベートを要求するのもかなり一般的だ。

現在もアメリカには奴隷に近い人々が存在する。まぁ私たちが解放するたびに、なぜか我々が人種差別主義者と呼ばれるのだが。

Mosa 職場にいるのに声が出るくらい泣いてしまった。 それと奴隷として扱われる女性に育てられ、その成長過程でその人が奴隷なのだと知る、それがどんなものなのかちょっと想像ができない。物凄い話だった。

Harry Policap 本当に心を鷲掴みにする、そして悲しい話だった。著者の思いやりとやさしさに賞賛を送るよ。ハイチからの第一世代の移民として、私はこの世界に「ローラ」のような人がたくさんいるという事実を証明することができる。彼女の安らかな眠りを祈るよ。

Archibald Chamberpot 奴隷のオーナーってのはこう... 脳の中の何かが切り替わるとかして奴隷を人間と思わなくなるのかね? 著者の母親の日記にローラがほとんど出てこないという所がこのストーリーの中で最も印象的な場面の1つだ。 彼女は愛情をもって接する家族と親愛する友人を持っているのに、同時に人として認識しない人物を所有している、それは私には理解できない不協和音だ。

なんだろう? ローラのことを "賢くお手伝いもしてくれる犬" のようなものと認識しているのだろうか?

NWPaul 人はその歴史の中で何度も人間を非人間化してきた、それは特殊なことではなく普通なことだよ。戦争の中で起こる残虐行為もそう、犯罪者を処刑する人間もそう、売春婦が殺された事件を聞き「自業自得だ」と事情も知らずに思うことも程度の差こそあれそうだ。

『日本占領下のフィリピンで10代の少女を迎い入れ56年間奴隷として扱ったアメリカ人家族の話』はこのPart3で最後です。
Part1はコチラPart2はコチラです。

記事の翻訳に時間がかかったせいで読者のコメントの翻訳にかける時間が足りなくなり、その部分が短くなってしまった事をお詫びします。コメントは翻訳が順次完了し次第追加していきます。

また大変厚かましいお願いですが、 翻訳が気に入ったらシェアしていただけるとありがたいです。

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“Chain” by Astro is licensed under CC BY 2.0