アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」より

私の家族の奴隷 Part2

My Family’s Slave - JUNE 2017

この記事は日本占領下のフィリピンで10代の少女を迎い入れ56年間奴隷として扱ったアメリカ人家族の話 のPart2です。最初から読むにはコチラをクリックしてください。


"アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。"



かつていたフィリピンでは両親はローラへの扱いを隠す必要はないと感じていた。だがアメリカではそれを隠すために苦労ししていた、そして彼女への扱いはよりきつくなっていた。

ゲストを家に迎えた時は両親はローラを無視するか、質問されれば嘘をつき素早く話題を変えた。シアトル北部に住んだ5年の間、私たちは通りを挟んだ隣人であり騒々しい8人家族であるミズラー家の人々を親交を持ち、彼らからサーモン釣りや、芝生の手入れや、マスタードなどの食べ物、テレビでのフットボールを観戦し盛り上がれば大声をあげる、色々なアメリカ的なことを学んだ。

ミズラー家の人々と共に試合を観戦中、ローラは食べ物や飲み物をリビングに運び、両親はすぐに消える彼女の背中に向かって笑顔でありがとうと伝えていた。

「今キッチンに向かった小柄な女性はどなたですか?」ミズラー家の父のビッグ・ジムがそう一度尋ねたことがある。父は、故郷の親戚だと答えた。「彼女はシャイなんだ」



ビッグ・ジムの息子ビリー・ミズラー、私の親友はそれに納得できていなかった。彼はよく私に会いに私たちの家を訪れた、時には週末ずっといたこともあった。それは、私の家の秘密垣間見るに十分な時間だった。

彼は一度、私の母親がキッチンで叫んでいるのを聞き、何事かとその場を覗き、顔を真っ赤にした私の母とキッチンの隅で震えていたローラを見た。私はその数秒後にその場を目撃した。ビリーはきまり悪さと混乱が混ざったような表情をしていた。"あれはなんだ?" 私はそれを無視して忘れるように彼に言った。

ビリーはおそらくローラをかわいそうだと思ったことだろう。彼はローラの料理を誉め、彼女をよく笑わせた、私が見たことがないような笑顔をローラは見せていた。お泊り会の時にはローラはビリーの好きなフィリピン料理、白米の上に牛肉のタパを乗せた料理を作った。(beef tapa:薄切りの牛肉を魚醤・ニンニク・砂糖・塩・コショウなどで炒めたフィリピンの家庭料理)

料理はローラ唯一の自己主張の方法であり、それは雄弁だった。少なくとも私たちは彼女の作る料理に愛情というものがこもっていたことをはっきりと認識していた。



そしてある日、私がローラを遠い親戚だと言及したとき、ビリーは私と最初に会った時に私が彼女を祖母だと言っていたことを思い出した。

「なんていうかまあ、彼女はそのどちらでもあるというか...」と私は言葉を濁した。

「なぜ彼女はいつも働いているのんだ?」

「彼女は仕事が好きなんだよ」私は答えた。

「君のお父さんとお母さん、彼らはなぜ彼女を怒鳴りつけるんだ?」

「彼女は耳があまり良くないんだ...」

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真実を認めてしまうことは、私たち家族の秘密を暴露することを意味していた。 アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。

私たちはこの国に受け入れられるに足るべき存在なのか?

私はそれらをすべて恥じていた、私自身もまた共犯者であることを含めて。彼女が調理した料理を食べ、彼女が洗濯しアイロンをかけクローゼットに掛けた服を着たのは誰だ? しかしそれでも、仮に彼女を失うことになっていたとしたらそれは耐えがたいことだっただろう。

そして奴隷を持つということ以外にもう一つ、私たち家族には秘密があった。私たちが米国に到着してから5年後、ローラの滞在許可は1969年に失効していたのだ。彼女は私の父の仕事に関連付けられた特殊なパスポートで渡米した。

父は上司との度重なる仲たがいの後に勤めていた領事館を辞め、その後も米国に滞在するため家族の永住権を手配したが、ローラにはその資格がなかった。父はローラを国に返すべきだったのにそうしなかった。



51歳当時のローラ。彼女の母親はこの写真が撮影される数年前に亡くなった。彼女の父親はその数年後に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。
image via theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family
ローラの母、フェルミナは1973年に亡くなった。彼女の父、ヒラリオは1979年に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。 そのいずれの時も、私の両親は "すまない" "金銭的な余裕がないんだ" "時間を作れない" "子供たちは君を必要としている" と答えた。

私の両親は後に私に告白したが、そこには彼女を返すことのできない別な理由もあったという。当局がローラの存在を知れば、そして彼女が望む通りアメリカを離れようとすれば当然知られることになる、そんな事態になれば私の両親は大きな問題を抱えることになり、国外追放される可能性も十分にあったのだ。

彼らはそのような危険を犯すことはできなかった。ローラの法的地位は「逃亡者」となっていた。彼女はほぼ20年間 "逃亡者" としてこの国に滞在したのだ。

彼女の両親がそれぞれ亡くなった後、ローラは何ヶ月も陰鬱に、寡黙になった。私の両親がしつこく言っても彼女はほとんど答えなかった。だがしつこく言うことが終わるわけでもなく、ローラは顔を下げたまま仕事をした。



そして父が仕事を辞めたことで私たち家族にとって波乱となる時期が始まった。金銭的に苦しくなり、両親は次第に仲たがいするようになった。シアトルからホノルルへ、そしてまたシアトルへと戻り今度はブロンクスへ、転々と住む場所を変え、最終的にはオレゴン州の人口750人の小さな町、ウマティラに移った。

その間、母は医療インターンとして、その後に研修医として24時間シフトで働き、父は何日も姿を消すようになっていた。父はよくわからない仕事をしており、それとは別に私たちは後に浮気やらなにやらしていたことを知った。突然家に帰り、ブラックジャックで新しく買ったステーションワゴンを失ったと言い出したこともあった。

家では、ローラが唯一の大人になる日が何日も続くようになった。彼女は家族の中で最も私たち子供の生活を知る人となっていた、私の両親にはそのような精神的な余裕がなかったがゆえに。

私たち兄弟はよく友人を家に連れてきた。彼女は私たちが学校の事や女の子の事、男の子の事、私たちが話す様々な事を聞いていた。彼女は私たちの会話をただ立ち聞きしていただけで、私が6年生から高校までフラれたすべての女の子の名前を挙げることができたのにはまいった。

そして私が15歳の時、父は家族から去っていった。私は当時それを信じたくなかったが、父が私たち子供を捨てて、25年の結婚生活の後に母を捨てたという事実だけがそこにあった。

母はその時点で正式な医師になるまであと1年を要しており、また彼女の専門分野である内科医は特に儲かる仕事ではなく、さらに父は養育費を払わなかったので、お金のやりくりはいつも大変だった。

母は仕事に行ける程度には気持ちをしっかり保っていたが、夜は自己憐憫と絶望で崩壊した。この時期の母の慰めとなったのはローラだった。

母が小さなことで彼女にきつく言う度に、ローラはより かいがいしく母の世話をした。母の好きな料理を作り、母のベッドルームをより丁寧に掃除した。夜遅くにキッチンカウンターで母がローラに愚痴をこぼしたり、父のことについて話したり、時には意地悪く笑ったり、父の非道にを怒ったりしていたのを何度も目撃した。

ある夜、母は泣きながらローラを探しリビングルームに駆け入り、彼女の腕の中で崩れ落ちた。ローラは、私たちが子供の頃にそうしてくれたように母に穏やかに話しかけていた。私はそんな彼女に畏敬の念を抱いた。

"母と私は一晩中言い争った。お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた。"



私の両親が離婚してから数年後、私の母親は友人を通して知り会ったクロアチアの移民イワンという男性と再婚し母はローラに対し新しい夫にも忠誠を誓うことを要求した。イワンは高校を中退し過去4回結婚しているような男で、私の母の金を使いギャンブルに興じる常習的なギャンブラーだった。

だがそんなイワンは、私が見たことのないローラの一面を引き出した。 彼との結婚生活は当初から不安定であり、特に彼が母の稼いだお金を使い込むことが問題となっていた。

ある日、言い争いの末に母が泣きイワンが怒鳴り散らしていると、ローラは歩いて両者の間に立ちふさがった。彼は250ポンド(約113kg)の大柄な男でその怒鳴り声は家の壁を揺らすような大きさだった。だがローラはそんなイワンの正面を向き、毅然とした態度で彼の名前を呼んだ。彼は面食らったような顔でローラの顔を見た後、何か言いたそうにしながらも側の椅子に座った。

そんな光景を何度も目撃したが、ローラはそんほとんどにおいて母が望んだとおりイワンに粛々と仕えていた。私は彼女のそのような様を、特にイワンのような男に隷属する様を見るのがとても辛かった。だがそれ以上に私の感情を高ぶらせ、最終的に母と間で大喧嘩に発展させたのはもっと"日常的"なことだった。



母はローラが病気になるといつも怒っていた。ローラが動けないことで生じる混乱とその治療にかかる費用に対処することを望んでいなかった母は、ローラに対し嘘を言っているのだろうと、自分自身のケアを怠った結果だと非難した。

そして1970年代後半にローラの歯が病気によって抜け落ちた時も母は適切な対処を拒んだ。ローラは何ヶ月も前から歯が痛いと言っていた。

「きちんと歯を磨かないからそうなるんでしょ」母は彼女にそう言った。私は彼女を歯医者に連れていかなければならないと何度も言った。もう50代になる彼女はこれまで一度として歯医者に行ったことがなかった。当時私は1時間ほど離れた大学に通っており家に帰るたびにそのことを母に言った。

ローラは毎日痛み止めのためのアスピリンを服用し、彼女の歯はまるで崩れかけたストーンヘンジのようになっていた。そしてある晩、ローラがかろうじてまともな状態で残っていた奥歯でパンを必死に噛んでいる様を見て、私は怒りのあまり我を失った。

母と私は一晩中言い争った。お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた。

母は家族を支えるために身を粉にして働いているのに子供たちがいつもローラの味方をすると、ローラなんてどこかへやってしまえばいいと、そもそも自分は最初から彼女を欲しくはなかったと、そして私のような思いあがり聖人ぶった偽善者なんて産まなければよかったと、まくしたてた。

私は母の言葉を反芻して、そして言い返した。偽善者なのは誰か自分が一番わかっているはずじゃないか、母の人生こそが見せかけのようなものだったじゃないか、自己憐憫に浸ってばかりいるのをほんの一瞬でも止めればローラがまともに食事をできていないことに、彼女の歯が腐り落ちていることにも気づいたはずだ。どうしてたった一度でも、彼女を自分に尽くすためだけに存在している奴隷としてではなく一人の人間として見てあげることができないんだ。



「奴隷?」母はその言葉を噛み締めながら、「奴隷ですって?」そう繰り返した。母は彼女とローラの関係は私には絶対に理解できないと言い放ちその晩の言い争いを終わらせた。

"絶対に"

そうしわがれた声で、苦痛や悲しみのようなものが混じった声で放った母の言葉は今でも、あの時からかなりの時を経た今でも、思い出すたびに腹を殴られたような気分にさせられる。自分の母を憎むのは最悪なことだがその晩私は母を憎んだ。そしてその時の母の目は、母も同様に私を憎んでいたことをうかがわせた。



その大喧嘩はただ母のローラに対する恐怖を、子供たちを奪われるという恐怖を増幅しただけだった。そして母はそのつけを支払わせようとより一層ローラにつらく当たった。

「"あなたの" 子供たちが私を嫌うようになってさぞかし嬉しいでしょうね。」母はそう言ってローラを責め、苦しめた。私たちがローラの家事を手伝うと母は憤り「ローラ! ...もう寝たほうがいいんじゃないの?」と皮肉を言った。

「働きすぎよ。"あなたの" 子供たちが心配してるわ。」そう言って寝室へローラを呼び出すし、しばらくすると目を腫らした彼女が出てくる、そんなことが続いた。そしてついにはローラから自分の手助けをしないでほしいと懇願されるようになった。

"なぜここに居続けるの? 逃げようとは思わないの?"
私たちはそうローラに尋ねた。

「誰が料理をするんですか?」と彼女は答えた。そこには誰が子供たちの世話をするのか? 誰が母の世話をするのか? 誰がその他すべてをするのだと、そういった意味が込められているのを察した。そしてまた別の時には「逃げるところなんて私にはありませんよ」と答えた、それはより真実味のある言葉として私の中に刺さった。



米国への移住は慌ただしく、この国になじむために皆必死で息をつく間もなく10年が過ぎ去った。そして気が付くと、さらに10年が経とうとしていた。ローラの髪は白く変わっていた。彼女は故郷の親戚たちが約束された仕送りが届かないのを不思議に思い、彼女に何が起きたのかといぶかしんでいるということを人づてに聞いた。彼女はもはや、そのことが恥ずかしく帰るに帰れなかった。

彼女はアメリカに知人もなく、家から離れた場所へ移動する手段も持っていなかった。電話も彼女を戸惑わせた。機械的なもの、ATMやインターホン、自動販売機、パソコン、それらは彼女をパニックに陥らせた。

彼女のつたない英語力は、早口な人の前では言葉を失わせ、逆に彼女が喋れば相手の言葉を失わせた。彼女は予約をすることも、旅行を企画することも、記入用紙に書き込むことも、食事を注文することも手助けなしにはできなかった。

私は自分の銀行の口座からお金を下ろせるキャッシュカードを彼女に与えその使い方も教えたことがあるが、1度使ったきりで、2度目以降は動揺してしまいそれ以来試そうともしなくなった。ただ彼女はそのカードを私からの贈り物として大切に保管してくれた。

私はまた車の運転を教えようとしたこともあった。彼女は手を振ってそれを断ったが、私は強引に彼女を抱き上げて車の運転席に座らせた。私たちは大声で笑いあった。その後20分ほどかけて操作方法やメーターの意味を説明しエンジンを始動させダッシュボードが点灯すると、彼女のそれまでの陽気な雰囲気はどこかへ吹き飛び、彼女の眼には恐怖の色が宿った。私が何かを言う暇もなく彼女は車から飛び出して家のなかへ逃げ込んでしまった。その後も数回試してみたが結果は同じだった。

私はそれが、彼女が運転ができるようになれば彼女の人生が変わると思いそうした。自らの力でどこへでも行けるようになれば、母との間で耐えきれないことが起きた時どこかへ逃げることができると。

4つの車線が2つになり、舗装された道から砂利道に変わった。三輪の自動車が道をかき分けるように進むのを眺めながら、大量の竹を積んだ荷車を引く水牛を通り過ぎる。時折犬や山羊が私の乗るトラックの前で道路を横切りバンパーに接触しそうになる。

私が雇った運転手は気を張り続け目的地へ急ぐ、今日仕事を終えられなければ残った仕事が明日以降に先伸ばされるのだ。私は地図を取り出し、目的地であるマヤントクの村へのルートをたどった。窓の外には、まるで折れた釘のように、腰を折り曲げ何千年も前から変わらぬやり方で米を収穫する人々が遠くに見えた。到着まで、ローラの物語が始まった場所までもう少しだ。

私は彼女の遺灰が入った安っぽいプラスチック製の箱を軽くトントンとたたき、磁器製かローズウッド製のちゃんとした骨つぼを購入しなかったことを後悔した。ローラの家族や親族はどう思うだろうか、もうそう多くない彼らは。

その地に残っている唯一のローラの兄妹は98歳のグレゴリアで、彼女はこの頃物忘れが激しくなっていると聞いていた。親戚の話によると、彼女はローラの名前を聞くたびに感情を露わにして泣き出すが、すぐになぜ泣いたのか忘れてしまうという。



(左) ローラと著者、2008年撮影。(右) 著者とグレゴリア
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family
私はローラの姪の一人と連絡を取っていた。彼女は私が到着するその日、ささやかな追悼式を行い、彼女に祈り、その後遺灰をマヤントクの共同墓地の一画に埋葬する予定を立ててくれていた。

ローラが亡くなってから5年の月日が経っていたが、私は最後のお別れをまだ済ませていなかった、そしてその時は間もなく訪れようとしていた。その日私は一日中激しい悲しみを感じ、それを表に出すまいと必死にこらえていた。

私の家族のローラに対する扱いを恥じる気持ちよりも、マヤントクで待つ彼女の親戚が私をどう迎えるかを心配する気持ちよりも、胸を裂くような悲しみを、まるで昨日彼女を失ったばかりかのような喪失感と悲しみを私は感じていた。

やがて私たちの乗るトラックは名ばかりの高速道路から降りてカミリング川沿いを走りだした。2つの車線が1つになり、砂利が泥道に変わった。竹で造られた家々を通り過ぎ、やがて前方に緑の丘が見え始める。そこはローラの、そして私の母と祖父の出身地だった。いよいよ大詰めだ。

"母が亡くなる前日、司祭は母に赦しを与えたい、あるいは赦しを請いたいことはあるかと尋ねた。母は半ば閉じられた目で部屋を見渡したが何も言わなかった。"



母の葬儀で私が贈った弔辞はすべて本当の事だった。彼女は勇敢で活発で、損な役割を担わされることもあったが彼女はできる限りのことをしたと。彼女が幸せだった時、彼女は喜びに満ちた日々を送っていたと。私たち兄弟に感謝してもしきれないほどの愛を注ぎ、80年代と90年代にはオレゴン州のセイラムにこれまで私たちが持ち得なかった本当の "我が家" を作ってくれたと。もう一度 母に感謝したいと思っていたと。 私たちは皆母を愛していたと。私が言ったすべては本当の事だった。

私はローラの事については話さなかった、母が晩年を迎えた時、彼女と接する時はローラのことを頭の中から消し、意識的に考えないようにしたのと同じように。母を愛するためには、そのような精神的な手術が必要だった。そのような歪な接し方が唯一私たちを母と子でいさせた。

私は母とはそういう関係でいたかった、特に90年代半ばに、母の健康が衰え始めてからは。糖尿病、乳がん、急速に増殖する血液および骨髄の癌である急性骨髄性白血病、母は一晩で健常から大病人へと転落していったかのようだった。

あの大喧嘩の後、私は23歳でシアトルに移り住み実家に帰ることを避けほとんど寄り付かなくなっていた。だが私が久々に実家に帰省するとそこには変化が生まれていた。

母は相変わらず母のままだったがかつてほど容赦ない人ではなくなっていた。母はローラに立派な入れ歯と彼女のためだけの寝室を与えていた。私たち兄弟がローラの「逃亡者」という法的地位を変えようと動き出した時も進んで協力してくれた。何百万人もの不法移民に合法的な滞在を許可するという画期的な移民法をロナルド・レーガンが1986年に通したのだ。それは長い時間を要したが、母が白血病と診断されてから4ヵ月後の1998年10月、ローラーは米国市民となった。母が亡くなったのはその1年後だった。

母が亡くなるまでの間、母はイワンと共にオレゴン州の海岸沿いのリンカーン市を何度か訪れた、時にはローラを連れだって。ローラは海を愛していた、その遠く離れた対岸に彼女が帰ることを夢見た島があったからかもしれない。

そしてローラは母がくつろいでいることを心から喜び幸せそうだった。午後の海辺での時間は、昔のことを思い出しながら話すキッチンでのほんの15分ほどの立ち話は、ローラの何年もの苦しみを忘れさせるようだった。

私はローラの苦難の日々を忘れることができなかったが、それまで知らなかった母の一面も知ることとなった。母は亡くなる前に、トランク2個にいっぱいに詰まった母の日記をくれた。

数フィート離れて眠る母の側で、私はその日記に目を通した。それは私が何年も見逃していた、目を背けてきた彼女の人生の断片が垣間見させるものだった。母は女性がそれを目指すのが珍しい時代に医学部に入った。アメリカに来てからは女性として、移民医師として、その両方で尊敬の念を勝ち取るために奮闘した。

母は20年間、米国オレゴン州セーレムにある発達障害者のための州立機関であるフェアビュー訓練センターで働いていた。皮肉なことに、彼女は職業生活の大半を弱者を救うために費やしたのだ。患者らは母を敬い尊敬した。

同僚の女性たちと親しい友人になり、共に靴を買いに出かけたり、互いの家で試着パーティーをしたり、ペニス型の石けんや半裸の男性のカレンダーのようなものを送りあうギャグギフト交換をしたりしていた、そのいづれも皆で大いに笑い転げたという。

パーティーに移った母の写真は、彼女が家族やローラに見せる母としての姿とは別の人生とアイデンティティを持っていたことがわかった、私は考えもしなかったがそれは当然のことだろう。

母はその中で私たち子供についても一人一人詳しく綴っていた、そして彼女が日々どう感じたかを。子供たちを愛しく思い、誇りに思い、憤りを覚えた日々を。さらに夫たちについては大量のページを使い記述していた。母の中では彼らは複雑な性格の人物であり、それを理解しようと必死になっていたように思える。誰もが重要な人として綴られていた。だがローラだけは、母の物語において "付属物" でしかなかった。



ローラが言及されるのは、誰か別の人の物語における端役としてだけだった。

「今朝、ローラが愛する息子アレックスを新しい学校に連れて行った。あの子に新しい友達がすぐにできてくれればと願っている、もう何度目かになる引っ越しで寂しい思いをしているだろうから...」 それ以降も2ページ以上にわたりその当時の私のことが書かれていたが、それ以上ローラに触れることはなかった。

母が亡くなる前日、カトリックの司祭が臨終の秘跡(病者の塗油とも、危篤の者に"病者の聖油"を病者の五官に塗り,罪のゆるしと,可能なら病気の治癒を祈る儀式)を行うために家に訪れた。ローラは母のベッドの横に座り、ストローを差したカップを手に、いつでも母に与えられるよう待機していた。ローラはいつも以上に母を気遣い優しく接していた。彼女は弱った母につけ込むことも復讐することもできただろうに、それとは逆の行動をとった。

司祭は母に赦しを与えたい、あるいは赦しを請いたいことはあるかと尋ねた。母は半ば閉じられた目で部屋を見渡したが何も言わなかった。それから、ローラを見ることなく、伸ばしたその手を彼女の頭に乗せた、一言も発さずに。



その後、ローラは私と暮らすようになった、彼女は75歳になっていた。私は結婚し2人の娘を持ち森林地帯の居心地の良い家に住んでいた。家の2階からはピュージェット湾を望むことができた。

私たちはローラに寝室を与え、彼女が望む通り好きにしてくれて構わないと伝えた。昼寝をしてもいいし、ドラマを見てゆったりするもよし、一日中何もしなくてもいいと。私はようやく彼女を、人生で初めてリラックスして自由になる時間を与えることができると思った。だがそんな簡単に行くはずがないと、その人生のほとんどを奴隷として過ごしてきた彼女を変えることは容易ではないと気づくべきだった。

-続きます-

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