インドの日刊英字新聞『The Hindu』より
photo via thehindu.com 日本では『目で食べる』という表現が頻繁に使われる、日本人は料理を眼で「食べた」後、口と胃で「食べる」というのだ。
インド東部のチェンナイで日本語教師として働くシミズ・ユウコさんは、日本人にとって料理の盛り付けは料理の味そのものと同じくらい大切でとても重要視されるものだと説明する、それこそ病的と言えるレベルで。
それはこの国の食関連の映画やテレビ番組の数々を見れば明らかだ。
例えば『リトル・フォレスト』だ、これは五十嵐大介が描いた日本の漫画作品であり、のちに2部構成の映画として2014年と2015年にリリースされた。それは都会に出るものの馴染めずに故郷の小森、日本の北東に位置する小さな村に戻り、そこで田畑を耕し自給自足に近い生活をしている20歳の女性、いち子の物語だ。
一人の女性が大自然に囲まれた小さな集落で暮らす中で人生を見つめ直していく姿が描かれるのだが、この作品のもう一つの主役とも言えるのが登場する料理の数々だ。
彼女の作る料理は季節に沿って変わっていく。夏には収穫されたばかりの新鮮なニンジン、セロリ、ショウガ、コショウなどを煮詰め自家製のウスターソースを作り、秋にはクルミご飯や栗の砂糖漬けを作る。冬には納豆、餅と共に食べられる大豆を使った発酵食品を作り、そして春にはフキノトウと呼ばれる春の到来を告げるフキという植物の淡い緑色の発芽を使ったご飯のお供であるバッケ味噌を作る。
いち子が自家製の「じゃがいものコロッケ」を作った際にはやはりお手製のウスターソースが添えられるのだが、そのサクサクとした音が聞こえるようなコロッケが白い陶器の皿に盛り付けられていく様を見ていると、どうしようもなく引き寄せられる、食欲をそそられる。
少しの間、いち子はあくまで自分自身のために調理しているということを忘れてしまう。それは決してファンシーなレストランに出すために作られているの料理ではない、だがそう思ってしまうほどにその美しく盛られた料理に目を奪われるのだ。
シミズ・ユウコさんそう語る。「例えば大根を剥いたりサケを切る際にもやり方があります。それは素材の持つ味を最大限に引き出す意味で行われますが、視覚的な魅力を引き出すためにも行われています。」
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土屋良雄 氏と山本勝 氏によって2003年に書かれた日本食の盛り付けにかける情熱をつづった本『The Fine Art of Japanese Food Arrangement』の中には、日本食の盛り付けはあまりにも魅力的で人の心をつかんで離さないため、外国人など伝統的な日本食を初めて体験する人はしばしば料理のプレゼンテーションの印象が 実際の食べ物の味に対する印象を薄れさせてしまうとまで書いている。
日本料理には味覚や嗅覚だけでなく、視覚、触覚、さらには聴覚までその料理体験に含まれるという。著者らはさらにそれぞれの料理に使われる皿や椀などの食器も色や形状、そして料理との相性で選択されると付け加えている。
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thehindu.com
この哲学はテレビに映る食べ物にも反映されている。日本のTVシリーズの『ラーメン大好き小泉さん』という作品では主人公が毎日日本の異なるラーメンショップを訪れる。彼女はラーメン二郎というカルト的な人気を誇るチェーン店のラーメンを食べるためだけにわざわざ1時間以上かけて出かける、そこは大量のニンニクと1968年以来注ぎ足して作られている醤油ベースのタレを使い脂の乗った濃厚な豚を使ったラーメンを提供することで有名な店だ。
彼女が楽しんでいるだけの味ではない。小泉は目を閉じて麺の湯切り音を聴く、まるでそれが世界で最も美しい音であるかのように。料理が提供されるとまず彼女はじっくりとそれを眺める、そして野菜や豚肉の香りを堪能する。
やがて彼女は豚肉のスライスに箸でそっと触れつつ笑顔を浮かべる、彼女はその豚が持つ質感/触感が完璧であることを知っている、それは最高に柔らかく、同時にその淵はカリカリなのだ。そして待つ、彼女はまだ食べる準備ができていない。そしておもむろに彼女は豚のトッピングを脇に置く。それから彼女は野菜に埋もれた太い麺を引っ張り出しその野菜の上に置く。
「ああすることで濃厚なスープに浸されていた麺は野菜の旨味も吸収するんだ。」と周りの客が説明し始める。そしてついに、彼女はスープに口を付ける、満足そうな笑顔で。小泉にとって、ラーメンとはすべての感覚で味わうべき料理なのだ。
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日本のラーメン文化はカルト的な人気となっている数々の名作映画に影響を与えてきた。"マカロニ・ウェスタン" に対する日本の回答として有名な伊丹十三監督の1985年の "ラーメン・ウェスタン" 映画である『タンポポ』はその代表例だ。
長距離トラックの運転手であるゴローがたまたま入ったさびれたラーメン屋で店主のタンポポと縁を持ち、彼女にラーメン屋の基本を手解きし「行列のできるラーメン屋」を共に目指すという物語だ。そしてここでもラーメンはただの食べ物として扱われない、スープ、トッピング、麺、ラーメンを構成する要素全てを堪能する様を丁寧に描いている。
「うーんそうだねえ、まあ、まじめな味ではあるんだけど、元気がないというか、力がないというか」
ゴロ-がタンポポのラーメンを食べた後にこう言ったように、Goodは十分ではないのだ。味だけではなくその体験全てを含めて完璧を目指すのが日本食なのだ。
日本人はまた料理を視覚的により魅力的にするために様々な質感、艶、形の食器を使用する。例えば汁椀と呼ばれるスープに使われる椀は美しいデザインと手でしっかりと掴むことができるグリップ力を備えた漆を使ったものになっており、小鉢という薬味などを乗せる小さな皿は陶器が使われる。そして焼物皿と呼ばれるグリルした食材を乗せる皿は陶磁器でできており長方形であることが一般的だ。
またそれぞれ素焼きだったり釉薬を使用していたり、同じやきものでもその料理を最も引き立たせる器が選ばれる。
主人公・井之頭五郎がローカルな料理を味わう『孤独のグルメ』というテレビ番組でも、主人公は料理の味と同じくらいその盛り付けを堪能する。
「今自分の胃は何を欲しているか?」彼はそう自問自答しながらレストランを探し歩く。そして彼の胃が中華料理を欲しがるエピソードでは、彼は日本の横浜地方のチャイナタウンを訪れ担々麵とバンサンスー(中華風春雨サラダ)、焼き餃子を注文する。
そして料理が出てくると彼はまず餃子の形状の完璧さを賞賛する。「この完璧さを崩さなければならないことが申し訳ない。」彼は口にする前にそう言葉を漏らす。
そして目で味わい、口で味わってこう自分自身に尋ねるのだ、「米を注文すべきだろうか?」。 “CLE Dinner Club Ushabu - Temarizushi (手まり寿司)” by Edsel Little is licensed under CC BY 2.0
料理の盛り付けと日本
Food plating and Japan - by Swathi Moorthy - MARCH 30, 2018"日本では料理をいかに美しく盛り付けるかに重点を置く、それが画面の中であっても外であっても"
photo via thehindu.com 日本では『目で食べる』という表現が頻繁に使われる、日本人は料理を眼で「食べた」後、口と胃で「食べる」というのだ。
インド東部のチェンナイで日本語教師として働くシミズ・ユウコさんは、日本人にとって料理の盛り付けは料理の味そのものと同じくらい大切でとても重要視されるものだと説明する、それこそ病的と言えるレベルで。
それはこの国の食関連の映画やテレビ番組の数々を見れば明らかだ。
一人の女性が大自然に囲まれた小さな集落で暮らす中で人生を見つめ直していく姿が描かれるのだが、この作品のもう一つの主役とも言えるのが登場する料理の数々だ。
彼女の作る料理は季節に沿って変わっていく。夏には収穫されたばかりの新鮮なニンジン、セロリ、ショウガ、コショウなどを煮詰め自家製のウスターソースを作り、秋にはクルミご飯や栗の砂糖漬けを作る。冬には納豆、餅と共に食べられる大豆を使った発酵食品を作り、そして春にはフキノトウと呼ばれる春の到来を告げるフキという植物の淡い緑色の発芽を使ったご飯のお供であるバッケ味噌を作る。
いち子が自家製の「じゃがいものコロッケ」を作った際にはやはりお手製のウスターソースが添えられるのだが、そのサクサクとした音が聞こえるようなコロッケが白い陶器の皿に盛り付けられていく様を見ていると、どうしようもなく引き寄せられる、食欲をそそられる。
少しの間、いち子はあくまで自分自身のために調理しているということを忘れてしまう。それは決してファンシーなレストランに出すために作られているの料理ではない、だがそう思ってしまうほどにその美しく盛られた料理に目を奪われるのだ。
魅力を呼び起こすものは何か?
「料理はただ出せば良いというわけではない、目でも満足できるよう盛り付ける、そうすることは私たちの中に深く染み付いていると言ってもいいかもしれません。」シミズ・ユウコさんそう語る。「例えば大根を剥いたりサケを切る際にもやり方があります。それは素材の持つ味を最大限に引き出す意味で行われますが、視覚的な魅力を引き出すためにも行われています。」
photo via thehindu.com
土屋良雄 氏と山本勝 氏によって2003年に書かれた日本食の盛り付けにかける情熱をつづった本『The Fine Art of Japanese Food Arrangement』の中には、日本食の盛り付けはあまりにも魅力的で人の心をつかんで離さないため、外国人など伝統的な日本食を初めて体験する人はしばしば料理のプレゼンテーションの印象が 実際の食べ物の味に対する印象を薄れさせてしまうとまで書いている。
日本料理には味覚や嗅覚だけでなく、視覚、触覚、さらには聴覚までその料理体験に含まれるという。著者らはさらにそれぞれの料理に使われる皿や椀などの食器も色や形状、そして料理との相性で選択されると付け加えている。
この哲学はテレビに映る食べ物にも反映されている。日本のTVシリーズの『ラーメン大好き小泉さん』という作品では主人公が毎日日本の異なるラーメンショップを訪れる。彼女はラーメン二郎というカルト的な人気を誇るチェーン店のラーメンを食べるためだけにわざわざ1時間以上かけて出かける、そこは大量のニンニクと1968年以来注ぎ足して作られている醤油ベースのタレを使い脂の乗った濃厚な豚を使ったラーメンを提供することで有名な店だ。
彼女が楽しんでいるだけの味ではない。小泉は目を閉じて麺の湯切り音を聴く、まるでそれが世界で最も美しい音であるかのように。料理が提供されるとまず彼女はじっくりとそれを眺める、そして野菜や豚肉の香りを堪能する。
やがて彼女は豚肉のスライスに箸でそっと触れつつ笑顔を浮かべる、彼女はその豚が持つ質感/触感が完璧であることを知っている、それは最高に柔らかく、同時にその淵はカリカリなのだ。そして待つ、彼女はまだ食べる準備ができていない。そしておもむろに彼女は豚のトッピングを脇に置く。それから彼女は野菜に埋もれた太い麺を引っ張り出しその野菜の上に置く。
「ああすることで濃厚なスープに浸されていた麺は野菜の旨味も吸収するんだ。」と周りの客が説明し始める。そしてついに、彼女はスープに口を付ける、満足そうな笑顔で。小泉にとって、ラーメンとはすべての感覚で味わうべき料理なのだ。
photo via thehindu.com
日本のラーメン文化はカルト的な人気となっている数々の名作映画に影響を与えてきた。"マカロニ・ウェスタン" に対する日本の回答として有名な伊丹十三監督の1985年の "ラーメン・ウェスタン" 映画である『タンポポ』はその代表例だ。
長距離トラックの運転手であるゴローがたまたま入ったさびれたラーメン屋で店主のタンポポと縁を持ち、彼女にラーメン屋の基本を手解きし「行列のできるラーメン屋」を共に目指すという物語だ。そしてここでもラーメンはただの食べ物として扱われない、スープ、トッピング、麺、ラーメンを構成する要素全てを堪能する様を丁寧に描いている。
「うーんそうだねえ、まあ、まじめな味ではあるんだけど、元気がないというか、力がないというか」
ゴロ-がタンポポのラーメンを食べた後にこう言ったように、Goodは十分ではないのだ。味だけではなくその体験全てを含めて完璧を目指すのが日本食なのだ。
盛り付けは芸術
2014年に出版された『The Essence of Japanese Cuisine: An Essay on Food and Culture(日本料理の本質:食べ物と文化に関するエッセイ)』は日本食の "間" という概念や盛り付けにおけるルールを探究する本だ。これによれば料理を盛る皿は決して食材で完全に覆われてはならず適切な空間を持たなければならないとしている。日本人はまた料理を視覚的により魅力的にするために様々な質感、艶、形の食器を使用する。例えば汁椀と呼ばれるスープに使われる椀は美しいデザインと手でしっかりと掴むことができるグリップ力を備えた漆を使ったものになっており、小鉢という薬味などを乗せる小さな皿は陶器が使われる。そして焼物皿と呼ばれるグリルした食材を乗せる皿は陶磁器でできており長方形であることが一般的だ。
またそれぞれ素焼きだったり釉薬を使用していたり、同じやきものでもその料理を最も引き立たせる器が選ばれる。
主人公・井之頭五郎がローカルな料理を味わう『孤独のグルメ』というテレビ番組でも、主人公は料理の味と同じくらいその盛り付けを堪能する。
「今自分の胃は何を欲しているか?」彼はそう自問自答しながらレストランを探し歩く。そして彼の胃が中華料理を欲しがるエピソードでは、彼は日本の横浜地方のチャイナタウンを訪れ担々麵とバンサンスー(中華風春雨サラダ)、焼き餃子を注文する。
そして料理が出てくると彼はまず餃子の形状の完璧さを賞賛する。「この完璧さを崩さなければならないことが申し訳ない。」彼は口にする前にそう言葉を漏らす。
そして目で味わい、口で味わってこう自分自身に尋ねるのだ、「米を注文すべきだろうか?」。 “CLE Dinner Club Ushabu - Temarizushi (手まり寿司)” by Edsel Little is licensed under CC BY 2.0
ここの主は真面目だよね
返信削除同じ記事を何度もアンテナサイトに載るようにクソみたいな工作してるけどな
削除ネット見てるとどこでも文句つけなきゃいけない人がいるね。
削除全てボランティアでやってると思ってるんだろうか。
辟易するわ。
ブログによっては記事の修正のたびに更新情報が出ちゃう仕様とかあるんじゃない?
削除ていうか何度も載ってるような記憶ないけど。
あと 10000km.com もハイソ感あって好き
削除漆塗の文化が縄文時代から脈々と続いて漆カキ職人の刃物からの物語理解して大事に数百年使い育て透明感あるいい味の器になる 食の器は多数の職人の努力と食物もしかり料理人との感性がとの感受性
返信削除外人さんも全てのモノには神様が関わっていることに感謝してね
>>1
返信削除だね。
ここと、すらるどと超訳はお気に入り。
あとBABYMETALIZEも。
ここよく見てるけど、あまりコメント残さないw
返信削除スマン管理人w
何気にいつも面白い記事をありがとう。
今回も面白かった。
今後も他とは違う記事で楽しませてくれ。
日本食は色と形を大事にしてるから
返信削除丸・四角、、透明感のある色・赤・緑、どれもはっきりさせて盛り付けるのが懐石料理
インドカレーは複雑な味で文化的にも素晴らしいけど、だいたい同じ色でスープ状のものが多い
そうすると見た目には退屈になっちゃうんだよね
日本食ブームに付随して日本の焼き物や椀が広まるといいなぁ
返信削除イギリスの一つの皿に全部乗せてるやつ
あれ、日本人が器をそれぞれ選び、味付けを変えてみたらいい感じになるんじゃないかと思ったり
ほんとそれ。
削除焼き物に関して日本は異常発達していてて、作家の数も異常。
漆芸も勿論。。
ただし宣伝とブランディングがクソ。
ほんと勿体無い。
俺らも山崎パンの白皿(フランス製)使ってる場合じゃねえぜ。
インドの英字新聞…翻訳元が渋いな
返信削除日本人が痩せているのは、先に視覚や嗅覚で食べるというのも影響が大きいと思う。
返信削除その時点でもう1/3くらい満たされている。
ただ盛ってあるものだと、口に入れて満腹ランプが点くかどうかの話だけになる。
マカロニチーズとか、ポテトチップスとか、アイスクリームとか、小分けにして器を選び、アクセント的な何かを添えたりして見た目を良くするだけで、満足度が全然違うはず。
ドーナツだってただ色砂糖ぶかっけたのより、可愛い猫のアイシングでもしてあったら丁寧に食べるだろう。
いや小泉さんはそういうアニメじゃないから!
返信削除ただの変態アニメだから!
後半百合ストーカーアニメになってた
削除飛ばし読みせず、じっくり読ませてもらいました。
返信削除主さんも真面目そうですが、
ここは コメント書く人も穏やかな感じで いいですな~。
花にミツバチが寄ってくるのと、ウンコにハエがたかるのは自然なことなんだよな
削除黒塗りで中が赤の食器は、行灯の灯りで盛られた料理が美味そうに見える原理だとか。
返信削除先人、凄すぎ。
食器に関して言えば、こないだでテレビで100均で売ってる食器を海外の骨董屋に目利きしてもらう……という企画で5万とか7万とか値段が付いてたな。
返信削除日本人から見たら何の変哲もない陶製の小鉢と漆塗りの椀だったけど、海外じゃまだまだ和食器自体が珍しいのかね。
和食の美しさの一例としてラーメン二郎を出してくるのか(困惑)
返信削除このインド人記者が竹達好きなだけじゃないのか?
日本食はどうのこうのという話なのに
返信削除なぜか孤独のグルメは中華料理のエピソードを紹介してるし
後半ラーメンばっかり・・・
これは日本人の食に対する考え方や作法について考察した記事ですよ
削除よく読んでね
輪島塗高級漆器の上に陶器を載せている画像とは思いたくは無い
返信削除輪島塗の制作工程を分かっていたらあんなことは出来ないよ
「俺は知ってる奴」ってアッピルしなくていいから
削除赤に塗った陶器じゃね?色合い的にさ
削除オイラが無知なだけかもしれないけど、あの色合いと縁の退色の仕方は塗り製品よりも陶器の風合いな気がする
コドグルって言うほど盛り付け堪能してるか?
返信削除どっちかっていうと庶民的なB級グルメの店を紹介してる番組で
盛り付けも気取らず、デカい肉がドンッと乗ってたりするやつじゃなかったっけ
まあ、日本人が料理を視覚的に完成さす主な理由は、
返信削除やはり、その料理を自分で食べるためでなく他の人間のために作るという動機が大きいよな。(自分で食べる料理でも、他人への提供を想定して作る)
しかもその「他の人間」とうのが、他の国のように「王侯貴族の料理」としてでなく、普通に庶民に提供する料理として発展したってのが大きい。やはり、そこには、縄文1万5千年の歴史に起因してるとしか言えんだろうな。