アメリカのラジオ局『WBUR-FM』より

第二次世界大戦中の日本で「無国籍の外国人」としての生きた若者の物語

One Man's Youth As A 'Stateless Foreigner' In Japan During World War II - March 22, 2018

アイザック・シャピロ氏、87歳になる彼は自叙伝『江戸っ子:Edokko: Growing Up A Foreigner In Wartime Japan』を再発売しました。大戦中の日本で育った外国人とは彼自身のことであり、それはとても興味深い物語です。

彼の両親はロシア系ユダヤ人の音楽家であり、ロシアの帝政を崩壊させたあのボリシェヴィキ革命での迫害や台頭するナチスのヒトラーから逃れるためドイツやフランスなど各地を転々としていたといいます。そして1931年に彼らは日本へとたどり着きます、シャピロ氏が生まれた国です。

東京で生まれた彼はその後5年間ほど、彼の母親が一時子供時代を過ごした中国のハルピンに写った後に東京に戻り1946年まで横浜と東京で育ちました。そう、彼は第二次世界大戦下の日本にいたのです。そしてそれは音楽家としての、ユダヤ人としての彼にとって人生における重要な役割を果たしたといいます。

それではジャーナリストのRobin Youngがアイザック・シャピロ氏にインタビューした時の音声をお聞きください。

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1941年の横浜にて、左端がアイザック・シャピロ氏 / photo via wbur.org

ロシアから逃れ、今度はその先でヒトラーが台頭し、最終的にナチスと同盟を組んだ日本に辿り着く、あなたやあなたのご両親がどの様な心境にあったのか想像もできませんね。

実際には、私の最初の記憶は日本ではありませんでした。私の母親はロシアのオデッサ(現在はウクライナの都市)で生まれたのですが、その後オデッサで反ユダヤ運動が起きたため中国のハルピンに移り住みました。

私が生後6ヶ月の時に私の両親は分かれ、母は1931年に私たち4人の息子を連れて母の父親が住んでいたその中国のハルピンに向かったのです。それから5年後に両親はやり直すことに決め私たちは再び東京に戻ります。1930年代後半にかけて、戦争が拡大していくのを私たちは肌で感じていましたね。



1941年に日本はパールハーバーに奇襲攻撃を仕掛けアメリカと戦争を開始、その後東京を含む日本の各都市へのアメリカ軍による絨毯爆撃がおこなわれました。

あなたはこの自叙伝の中で、あなたのお母さんが空襲があった夜に一晩中、家に火が移るのを防ぐために屋根の上でに上りホウキで降り注ぐ火の粉を払い続けていたと書いていますね。それはどんな体験でしたか?

そうですね、やはりとても恐ろしかったです。東京を焼夷弾の空襲が襲ったのは1944年の秋で私は当時まだ13歳でした。そして3月10日にはさらに大規模な攻撃があり、私たちは東京を離れ北へ100マイルほど離れた軽井沢の村に避難しました。

あなたはこの時点で自分を何者だと考えていたのでしょう? ロシア系ユダヤ人の音楽家の子供として東京に生まれ、中国と日本で育ち、日本語を流暢に話しながらもアメリカの児童向け図書である『Rover Boys』などを読み西洋のクラシック音楽を聴いていたそうですね。自分の拠り所はどこにあったのでしょう?

ふふふ、それは答えるのが難しい質問ですね。ただ私はいつもアメリカにいつか行きたいと思っていました。日本語も話しましたが一番使っていたのは英語でしたね。私の兄弟と話す時も英語でしたし私たちは皆英語を使いたいと思っていました。

私は外国人でしたが無国籍だったので、日本人たちは特に私たちを敵として扱ったりせずかなり快適に過ごせていたと思います、食料配給や爆撃を除いてですが。



ちょっと待ってください、快適とおっしゃいますがあなたは栄養失調になって手足に痛みを覚えるほどだったと書いていますよね? 食糧事情はかなり厳しかったんですよね?

そうですね。ですがそれでもやはり私は自分の子供時代が幸せでないものだったとは言えません。良い友人もたくさんいましたし。



その後広島と長崎に原爆が投下されたことを知らされ天皇による玉音放送が流される、これは特に降伏すると明言したものではなかった。

そうですね、戦争を終わらせるといった内容のものでした。



長く辛い闘いの日々が終わることを知らせる放送だったわけですが、若かったあなたは解放感に包まれ、その時人々は家の中から出ないように言われていたにも関わらず、とても敏感な時期だったにもかかわらず、あなたは自転車に飛び乗って走り回ったとか。

ええ、道路には誰もいなくて、軍警察の人が追いかけてきたのですがそれを振り切り走り続けましたね。



どこへ行ったのですか?

その時はどこへも。ただ走り回っていたのです。ただわけもわからず興奮しながら自転車をこいでいました。

そして後に14歳のあなたはご両親の反対を振り切って東京へ行き、気が付けば戦艦ミズーリや数百にも及ぶ連合国の船がひしめいていた東京湾に停泊していた戦艦アイオワの上にいた。

今思い返しても実に無鉄砲だったと思います。リスクなど全く考えずに本能の赴くままに行動していた。ですがそれはとても強い願いからの行動だったと思います。

そして横浜の港で船が来るのを見ていたのですがそこでアメリカの軍人と出会い、私が日本語と英語に堪能であったため雇われることになりました。海軍の役人と一緒のジープに乗り停泊する軍艦に連れて行かれました。乗船した後に食事を与えられたのですがそこで私は最高司令官と会ったことを覚えています、 ジョン・マケイン(連邦上院議員のジョン・マケインの父親) やウィリアム・ハルゼー・ジュニア に。

1945年9月2日の降伏文書調印式にも参列しました、ミズーリの横に並んだアイオワのデッキの上からダグラス・マッカーサーが調印するのを目撃しました。

その後私は海軍大佐であるダックワース大佐によって、空軍基地を占領していたジョン・C・モン大佐 に紹介されました。

私は海兵隊員からジープを運転する方法を学んでいたのでそこから彼の通訳兼運転手として働くようになります。



あなたはまだ14歳でしたよね?

ええ、私はまだ14歳でした。しばらくすると彼は私に「君をアメリカに連れていきたいと思う」と言ってきました。彼は私の両親の元を訪れ双方それに同意します。

そして1946年の7月、 アーサー・D・ストラブル 少将が日本に呼び寄せられるのですが、彼はそれを知りませんでしたが、彼は私を拾ってハワイに連れて行くためにそこに呼び寄せられたのです。



アメリカに行く前にもう一つ大きな出来事がありましたよね、あなたは広島の原爆投下の後の影響を調べる軍の調査に通訳として同行されましたね。

ええ、私たちはあの恐ろしい、破壊しつくされた通りを歩き回りました。私はあのようなものを見たことがなく、壊滅的としか言いようがない光景でした。調査から帰る際には誰も言葉を発することができないほどでした。広島を見た1945年の10月のあの日は、本当に忘れることのできない体験をした日になりました。

まだ14歳の男の子にとって軍に入りその任務に随行するというのはアドベンチャーでもあったと思いますが、それもその瞬間に変わったのでは?

何もかも新鮮で楽しくもありましたが広島の調査は全く違うものでした。その荒廃具合は凄まじく、たった1つの爆弾がこれほどまでの、何千何万という数の爆弾をもってしてもここまでの破壊はできないのではと思うほどの破壊を生み出した、その恐ろしさを実感しました。

その時は考えもしませんでしたが、後になってもし仮に日本が降伏しなければ最終的には日本のすべての都市が広島のように粉砕されてしまっていたかもしれないと思いました。



あなたが避難した先も含めて?

ええ。そしてアメリカの軍人たちが歌っていた軍歌を聞いたのですが、それはいかにして日本を墓地にするか、といった内容のものでした。それはアメリカの軍人たちが互いにを鼓舞するために歌っていた曲です、日本を爆撃し続け全てを墓地にしようと彼らは歌っていたのです。

その時になって、あのまま戦争が続いていたら私たちはそれこそ本当に抹消されていたんだなと気づきました。


2011年当時のイザック・シャピロ氏 / photo via newyorksocialdiary.com

あなたはその後ハワイに渡り、コロンビア大学に留学。朝鮮戦争に徴兵された時に米国市民権を得て戦後はずっと弁護士として活躍してきましたね。そしてジャパン・ソサエティー の理事も務められ日米の文化交流のために尽力されてきた。

しかも日本の天皇にも会ったことがあるとか。

ええ。
(※ ニューヨークタイムズの記事 によれば昭和天皇と3回謁見したとのこと)



戦争を終わらせる放送を実際に耳にしたあなたが、巡り巡ってその人に出会う、本当に凄い人生ですね。アイザック・シャピロさん、貴重なお話をどうもありがとうございました。

『江戸っ子:Edokko: Growing Up A Foreigner In Wartime Japan』 / photo via amazon.co.uk

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