アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」より

私の家族の奴隷

My Family’s Slave - JUNE 2017

image via theatlantic.com
All photos courtesy of Alex Tizon and his family

"彼女は私たちと56年間共に生活し、私やその兄弟を無給で育ててくれた。11歳の頃まで、私はごく一般的なアメリカ人の子供だった、彼女が私の家族の奴隷だと知るその日まで。"

アクセス解析ツールChartbeatを運営する米国のChartbeat社が発表した 『2017年最も読者を魅了した記事ベスト100』 の1位に輝いた アメリカの時事月刊誌「The Atlantic」 の記事『私の家族の奴隷(My Family’s Slave)』の翻訳です。

著者のアレックス・ティゾンは1997年にピュリッツァー賞を受賞したフィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。この記事は彼の遺作となっています。




その灰はトースターの大きさほどの黒いプラスチック製の箱に詰まっていた。それは3ポンド(約1.36kg)ほどの重さで、私はそれをキャンバス製のトートバッグに入れ、スーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した。

マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために。それは2016年7月の出来事だった。



彼女の名前はEudocia Tomas Pulidoだった。私たち家族は彼女をローラと呼んだ。彼女は身長4フィート11インチ(約1.5m)、モカ・ブラウン色の肌とアーモンド形の目を持った女性で、今でもその姿をありありと思い出すことができる。

彼女は私の母が子供の頃に祖父からもらった "贈り物" であり、当時彼女は18歳だった。私の家族がマニラからアメリカに移住する際、私たちは彼女を共に連れていった。

彼女の生活は奴隷以外の何物でもなかった。彼女の日々は私たち家族が目を覚ます前に始まり、家族が寝静まった後に終わった。彼女は1日3食を用意し、家をきれいに掃除し、両親が仕事から帰るのを迎え、4人の兄弟と私を世話した。

私の両親は決して彼女に給料を支払わず、彼らは常に彼女を叱っていた。彼女は足枷こそされていなかったが、されていたも同然だった。夜にトイレに行く途中で、彼女が洗濯が終わった服を折り畳む途中で、その洗濯物の山に向かって倒れるように眠っていた様を何度見たかわからない。



私たちのアメリカ人の隣人たちは、私たちを理想的な移民家族のように思っていた。実際彼らは私たちにそう言った。私の父は法律の学位を取得し、母親は医者になった。私も兄弟も良い成績を残していた。だが決してローラのことについては誰にも語らなかった。

母が1999年に白血病で亡くなった後、ローラは私と共にシアトル北部の小さな町に住み始めた。私は家族を持ち、キャリアを積み、郊外に家を持つという、まさにアメリカンドリームを勝ち取った移民だった。そして、私は奴隷を所持していた。

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マニラの手荷物預かり所で、私はローラの遺灰がちゃんと入っていることを確認するために荷物を解いた。外では、排気ガスと、ゴミと、海と、甘い果実と、人々の汗が混合したなじみ深い濃厚な匂いがした。

翌朝、早いうちから私は目的の場所まで運んでくれる運転手を雇い、トラックで渋滞の中を縫うようにゆっくりとその場所まで向かった。クルマやオートバイ、ジープニー(フィリピンで使われている小型乗り合い自動車)の溢れるその光景は私の知っていたフィリピンの光景と全く違っていて私を驚かせた。

"祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。」"

私たちが向かった場所はフィリピン北部ルソン島にあるタルラック州であり、それはローラの物語が始まった場所だった。

そこは軍の中尉のだった私の祖父、トマス・アスンシオン(Tomas Asuncion)がかつて住んでいた場所だ。彼は土地を多く所有していたがお金になる資産は少なく、愛人たちをその敷地内にある別々の家にかこっていた。私たち家族は祖父を風変りで暗い雰囲気を持つ恐ろしい男性と記憶している。

祖父の妻は唯一の子供、私の母を産んですぐに亡くなった。母は祖父が所有する奴隷の手によって育てられた。



その地域の島々では長い奴隷制度の歴史が存在した。スペイン人が来る前から島民は他の島民(通常は戦争捕虜や犯罪者、債務者)を奴隷にしていた。奴隷は財産とみなされ売買される対象だった。

また高い地位にある奴隷は低い地位にある奴隷を所有でき、その低い奴隷はさらに低い奴隷を所有するということもあったという。中には生き残るために自ら隷属に入ることを選んだ人もいる、労働と引き換えに彼らは食糧や家、保護を受けることができたのだ。

そして1500年代にスペイン人が現れた時、彼らは島民を奴隷にし、後にアフリカとインドの奴隷を連れて来た。スペインは最終的には家庭内とその植民地での奴隷制度を段階的に廃止するようになったが、当局の目の届かないフィリピンの一部ではその後も奴隷制度が継続していた。1898年に米国が島を支配した後でさえ、その伝統は異なった形で存続し続けた。貧困が深刻な問題となっているこの地域では今日でも奴隷に近い扱いの人々が存在している。



私の祖父は3家族の奴隷(に近い扱いの人々)をその敷地内で住まわせていた。 1943年の春、その地域の島々が日本の占領下にあった時代、祖父は近くの村から一人の少女を家に連れて来た。彼女は農家の娘で、貧しく、学校教育を受けておらず、従順に思われた。

少女の両親は彼女を二回りも年の離れた農夫と結婚させることを望んでいた。彼女はそれを強く嫌がったがどうすることもできなかった。祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。」母はまだ12歳になったばかりだった。



ローラはその契約が生涯続くものであることを理解せずに同意した。

祖父は母にこう言った。
「この子はお前への "贈り物" だ。」

「私はそんなの望んでない」
母はそう答えた、拒否することが不可能であることを知りつつ。

やがて祖父は日本人と戦うために家を後にした、地方の老朽化した家に母とローラを残して。ローラは毎日母の食事を作り、身なりを整え、服を着せた。母が市場を歩くときはローラは日差しから母を守るために傘を持って随行した。

夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた。



18歳当時のローラ(左)
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family
ある日、まだ日本との戦争中だった時、祖父は家に帰ると母を捕まえ怒鳴り声をあげた。母が言うには、はっきりとは覚えていないが話してはいけないと言われていた少年と何か関係があったらしい。祖父は怒り、母に「テーブルの側に立て」と命じた。

怯えた母はローラと共に部屋の隅に縮こまった。そして、震えた声で、母は祖父に、ローラが代わりに罰を受けると言った。ローラは懇願するような目で母を見たが、すぐに無言でダイニングテーブルに向かった。

祖父はベルトを持ち上げて、「You. Do. Not. Lie. To. Me.(私に、嘘をつくな!) You. Do. Not. Lie. To. Me(私に、嘘をつくな!)」と刻みながら12回、ベルトをローラに振るった。ローラはその間も声をあげなかった。

私の母は、彼女の人生の後半に差し掛かった頃にこの話を詳しく私にしてくれた。母の言葉は「私がそんなことをしたなんて信じられる?」といったトーンをはらんでいた。ローラはその話に耳を傾けている間、視線を下げていた。そして彼女は悲しそうな表情で私を見ながら「ええ、そんな感じでしたね」とだけ口にした。
その祖父の折檻から7年後の1950年に母は私の父と結婚しマニラに移り住んだ、もちろんローラを連れて。そのころ祖父は、おそらく戦争の体験も影響したのだろうが、日々悪夢に悩まされいた。そして1951年、32口径をこめかみに当てて引き金を引いた。

母はそのことについてほとんど話をしなかったが、祖父の気質をしっかりと受け継いでいた、強権的で、気分屋で、実は脆弱な心を。そして母は祖父の「命令を与える立場にいる人間はその役割を受け入れなければならない」という考えも受け継いでいた、それは彼ら自身のために、家族のために常にどこかで意識すべきことであると。それによって子供たちは泣くかもしれないし不平を言うかもしれないが、彼らの魂は感謝するだろうと。



ローラ27歳、アメリカに移住する前、著者の兄と。
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All photos courtesy of Alex Tizon and his family
私の兄アーサーは1951年に生まれた。私は次に、さらに3人の兄弟が続いた。私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、子供たちにも献身的でいることを期待していた。ローラが私たち兄弟の世話をしている間、私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった。

そしてある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。 給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった。それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった。



父は家族と一人の家事奉公人を共に連れて行くことを許されていた。両親は両方とも働かなければならないと考え、子供と家を世話するためにローラを必要とした。

母はローラにそれを伝えたが、彼女はすぐに返事をできなかった。後にローラから話を聞くと、彼女は恐怖を感じていたという。「それはあまりにも遠すぎる場所です。」彼女は言った。 「あなたの両親は、もう私を帰宅させてくれないつもりなのではと思いました。」

最終的にローラにアメリカ移住を決断させたのは、父の、アメリカではもっと良い生活が待っているという約束だった。

父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った。そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると。ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた。ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ。

"それは私を混乱させる光景だった。両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。"

1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。その時点でローラは21年間私の母に尽くしていた。数多くの面において、彼女は私の母や父よりも私の親だった。

彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった。私が赤ん坊の頃、 "ママ"や "パパ" などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた。私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった。

米国に移り住んだ時点で私は4歳だった。ローラの、私たちの家族における立場を理解するにはあまりにも若すぎた。だが私や兄弟は母国から距離的にも社会文化的にも遠く離れた地で育ったこともあり、それまでとは違った世界の見方を育んだ。だが一方で、母と父は環境を大きく変化してもなお変わることは、あるいは変わろうとする意思はなかった。



ローラが約束された手当を受けとることはなかった。彼女は私の両親に、アメリカで生活し始めてから何度か遠まわしにそれを尋ねた。ローラの母は病気に陥っていた(私は後にそれが赤痢だったと知る)。彼女の家族は必要な薬を買う余裕がなかった。

ローラは私の両親に「可能ならば、どうか」と尋ねたが、母は溜息を吐き、父は「どうしてそんなことが言い出せるんだ?」とタガログ語で答えた。「今私たち家族がどんなに大変な時期にあるかわからないのか?君には恥というものがないのか?」

当時、私の両親はアメリカへの移住のためにお金を借りており、さらに滞在するためにもっと借りていた。父はロサンゼルスの領事館からシアトルのフィリピン領事館に転属されていた。

父は年に$ 5,600を給与として受けてっていた。メインの仕事以外にもトレーラーの清掃、債務回収人としても働いていた。母はいくつかの医学研究室で技術者として仕事をしていた。私たちはアメリカに移ってから両親の姿をほとんど見たことがなく、見ることがあってもしばしば疲れている様子で不機嫌だった。



母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した。そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。

時には私の両親は二人でローラを責め立てた、彼女が泣いてしまうまで、まるで泣かせること自体が目的であるかのように。

それは私を混乱させる光景だった。私の両親は私や兄弟には優しく、私たちも両親を愛していた。しかし、両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。

私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった。8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった "奴隷" という言葉を教わった。彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった。

両親がローラを怒鳴りつけるのが嫌で仕方がなかったが、だからといって彼女を奴隷として扱っている状況を不道徳とはまだ思えなかった。



(左)ローラと子供たち。(右)アメリカに到着して5年後、両親、兄弟、ローラとともに著者(左から2番目)。
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「彼女と同じような扱いを受けている人間を知っているか?」
「彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?」
「無給で毎日骨折って働く人間がいるか?
椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?
毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、外出もほとんせず、友人も趣味も持てず、プライベートな空間が家にまったくない人間が他にいると思うか?(私たちが住んできた家では、ローラが寝る場所はいつもソファーや倉庫や妹のベッドルームの隅などだった。) 」

兄はローラの現実を要約した。私たちはローラと同じような立場にいる人間をテレビや映画の奴隷のキャラクターでしか見つけることができなかった。



ある晩、9歳だった妹・リンは夕食に現れなかった。父はローラに怠慢だと怒鳴りつけた。

「私は彼女に食事をとってくれるよう言いました」と立ち上がりにらみつける父にローラが答えた。彼女のか弱い抵抗は父をより怒らせ、父は彼女を殴りつけた。ローラが部屋から飛び出す。私は彼女の泣き声をはっきりと聞くことができた。

「リンはお腹がすいていないって言ってた。」
私は言った。

私の両親は振り返り驚いた表情で私を見た。私は涙が出る前に感じる顔の痙攣を感じたが、この時は泣かなかった。母の目には、それまで見たことのない何か暗い影が映っていた。嫉妬?

「お前はローラの味方をするのか?」と父は言った。「そんなことをするのか?」

「リンはお腹がすいていないって言ってた...」私はもう一度、つぶやきに近い小さな声で言った。私は13歳だった。それは私たちの日々を見守ってくれた女性のために立ち上がった最初の試みだった。



彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった。服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった。私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで小さくし食べさせてくれた女性だった。

夏の日、間接を痛めたことから両脚を石膏で固めた時に毎日洗面器を持ってきて私を拭いてくれたのは、夜中に薬を持ってきてくれたのは、数ヶ月のリハビリを通して私を助けてくれたのは彼女だった。

ローラの嘆き悲しむ声を聞くことは耐え難いことだった。

-続きます-

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“Chain” by Astro is licensed under CC BY 2.0